歎異抄 後序 ひとえに親鸞一人が為なりけり

後序
原文 現代語訳
右条々は皆もって、信心の異なるより起こり候か。 これら、11章から18章で取り上げた間違いは、親鸞聖人の信心と異なるところから起こったものでしょうか。  
故聖人の御物語に、法然聖人の御時、御弟子その数多かりける中に、同じ御信心の人も少なくおわしけるにこそ、親鸞御同朋の御中にして御相論のこと候いけり。 今は亡き親鸞聖人がよく語って下されたことに、親鸞聖人が法然上人のお弟子であられた時、法然門下380余人という沢山のお弟子がありましたが、同じ他力真実の信心の人が 少なかったので、お友達の中で起こった論争があります。
そのゆえは、
「善信が信心も聖人の御信心も一つなり」
と仰せの候いければ、
それは、その時「善信」というお名前だった親鸞聖人が、
「この善信の信心もお師匠様・法然上人の御信心も同じでございます。少しもかわるところはありません」
おっしゃったからです。
勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もってのほかに争いたまいて、
「いかでか聖人の御信心に善信房の信心一つにはあるべきぞ」
と候いければ、
勢観房・念仏房などというお友達が、
「どうしてお師匠様の御信心とおまえの信心が同じなものか」 と猛烈に異議を申し立てました。
「聖人の御智慧才覚博くおわしますに、一つならんと申さばこそ僻事ならめ、往生の信心においては全く異なることなし、ただ一つなり」
と御返答ありけれども、
親鸞聖人は
この親鸞の智慧や才覚が法然上人と同じだといったのなら、もちろんとんでもないことでありましょうが、他力真実の信心においてはまったく異なることはありません。ただ一つです。」
とお答えされたのですが、
なお
「いかでかその義あらん」
という疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御前にて自他の是非を定むべきにて、この子細を申し上げければ、
それでも
「お前の言うことはさっぱりわからん」
と、非難や疑いがあって、平行線をたどったので、結局、法然上人の御前で、どちらが正しいかはっきりさせて頂こうと法然上人に事の次第をご報告したところ、  
法然聖人の仰せには、
「源空が信心も如来より賜りたる信心なり、善信房の信心も如来より賜らせたまいたる信心な り、さればただ一つなり。別の信心にておわしまさん人は、源空が参らんずる浄土へは、よも参らせたまい候わじ」
と仰せ候いしかば、
法然上人は、
「この法然の信心も阿弥陀仏より頂いた信心、善信の信心も阿弥陀仏より頂いた信心であろう。下された方も下された信心も同じだから、ただ一つになる。因が違えば結果は異なる。この法然と信心の異なった人は、私が往く浄土へは、往けませんよ」
とおっしゃいました。  
当時の一向専修の人々の中にも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候らんとおぼえ候。 そういうところからも、当時、法然上人直々の380余人のお弟子の中でさえも、親鸞聖人の御信心と異なる、間違っていた人がたくさんあったことがうかがえます。  
いずれもいずれも繰り言にて候えども、書き付け候なり。 いづれもいづれも、また同じくり返しかと思って聞くでしょうが、書かずにおれないのです。 
露命わずかに枯草の身にかかりて候ほどにこそ、相伴わしめたまう人々、御不審をも承り、聖人の仰せの候いし趣をも申し聞かせ参らせ候えども、閉眼の後は、さこそしどけなき事どもにて候わんずらめと歎き存じ候いて、 この身も枯れ草のようになり、その上に露の命がかろうじてかかっているかのような今日この頃、共に親鸞聖人の教えを聞き求めて来た人々の尋ねられた意見不審の点もよく聞いて、親鸞聖人からお聞かせ頂いたことを、その都度お伝えしてきましたが、私の死後は、もう話もできないので、どんなにとんでもないことが伝えてゆかれるのだろうかと心配に思って、この書を記したのです。  
かくのごとくの義ども仰せられあい候人々にも、言い迷わされなんどせらるることの候わんときは、故聖人の御心にあいかないて御用い候御聖教どもを、よくよく御覧候べし。 これらのいろいろ間違ったことを、これが親鸞聖人の教えだと言う者が現れた時、それに迷う者があった時は、親鸞聖人の御心にかなって、ご使用になられたもの、聖人の書き残されたものをものさしとしてよくよくご覧頂きたいと思います。  
おおよそ聖教には、真実・権仮ともに相交わり候なり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真を用いるこそ、聖人の御本意にて候え。 仏教の教えを正しく伝えた一切のものには、永遠に変わらない真実と、真実へ導くために一時的に必要な権仮(方便)が両方説かれているのです。たとえば方便をいかだ、真実を向こう岸とすれば、いかだに乗らねば向こう岸にはわたれませんが、いかだに乗ったままでは向こう岸にはわたれませんから、最後はいかだをおり、向こう岸に到着するのです。ちょうどそのように、方便から真実に入るのが、親鸞聖人の御心であり、仏教の教えの目的地なのです。  
かまえてかまえて聖教を見乱らせたまうまじく候。 大切の証文ども、少々抜き出で参らせ候て、目安にしてこの書に添え参らせて候なり。 仏教の教えを正しく伝えた一切のものを読む時大事な心がけは、真実と権仮を誤ることのなきよう、そういう真剣さがいるのです。 だから、読んだ人が間違わない目安にしてもらえるように、大切な証文を少々抜き出して書き添えましょう。  
聖人の常の仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」
と御述懐候いしことを、
親鸞聖人がいつも
「大変長い間、阿弥陀仏が考えに考え抜かれ建てられた本願をよくよく思い知らされてみれば、全く親鸞一人を助けんがための本願であった。こんな数限りもない悪業をもった極悪の親鸞を助けて下された阿弥陀仏の本願の尊さよ、ありがたさよ。」
と述懐しておられたことを、  
今また案ずるに、善導の
「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に沈み常に流転して、出離の縁あることなき身と知れ」
という金言に、少しも違わせおわしまさず。
今また考えてみると、善導大師の
「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に沈み常に流転して、永久に助かる縁のない者と知れ」
という御言葉に少しも違うところはありません。  
さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず、如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを、思い知らせんが為にて候いけり。 かたじけないことに親鸞聖人がご自身にひきよせられて、私たちの罪悪の深きこと、阿弥陀仏の御恩の高きことを知らずに迷っていることを思い知らせる為におっしゃったことです。  
まことに如来の御恩ということをば沙汰なくして、我も人も善し悪しということをのみ申しあえり。 善悪を問題にするのは真実へ導く方便として必要ではありますが、阿弥陀仏のご恩ということを問題にせず、善悪だけを問題にしています。
聖人の仰せには、
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそ、仰せは候いしか。
親鸞聖人がおっしゃるには、 「私は何が善で何が悪か、まったく分からない。なぜなら、阿弥陀仏は本当の善をご存じだから、そのように親鸞も知っていれば、善をわかっているとも言えよう。また、阿弥陀仏がご存じのように親鸞も悪を知っていれば、悪をわかっていると言えるだろう。しかし知らないのだ。善悪は自分の都合で決めている。そんな煩悩でできていて自分の都合しか考えない人間が、変わり通しの、ひさしに火のついた家のように不安なこの世界に生きているから、すべてのこと、例外なく、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ阿弥陀仏の本願のみが、まことなのだ」とおっしゃいました。  
まことに我も人も空言をのみ申しあい候中に、一つ痛ましきことの候なり。そのゆえは、念仏申すについて信心の趣をもたがいに問答し、人にも言い聞かするとき、人の口をふさぎ相論を絶たんために、全く仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、浅ましく歎き存じ候なり。この旨をよくよく思い解き、心得らるべきことに候。 本当に、私も人も、そらごとばかり言い合っているのですが、1つ痛ましいことがあります。それというのも、念仏の称え心や信心についお互い問答したり、話して聞かせるとき、相手を黙らせ、論破するために、親鸞聖人がまったくおっしゃっていないことをおっしゃったと主張するのは、嘆かわしいかぎりです。よくよく注意して、そういうことがないようにして貰いたい。  
これさらに私の言葉にあらずといえども、経釈の行く路も知らず、法文の浅深を心得わけたることも候わねば、定めておかしきことにてこそ候わめども、故親鸞聖人の仰せ言候いし趣、百分が一つ、片端ばかりをも思い出で参らせて書き付け候なり。 これまで記してきたことは、決して私が考えたことではないとはいえ、経典やその解釈に通じているわけでもなく、経文の深い浅いが分かっているわけでもないので、きっとおかしいと思われることもあるでしょうが、今は亡き親鸞聖人のおっしゃった100に1つでも、少しでも思い出して書きとめたのです。
悲しきかなや、幸いに念仏しながら、直に報土に生まれずして辺 地に宿をとらんこと。一室の行者の中に信心異なることなからん ために、泣く泣く筆を染めてこれを記す。 幸いにも、念仏する身になりながら、直ちに真実の浄土へ生まれず、浄土の近辺にとどまったならば何と悲しいことでしょう。ともに聞法する法友の中に、信心の異なることのないように、泣く泣く筆をとり、この書を記したのです。  
名づけて歎異抄というべし。外見あるべからず。 これを『歎異抄』と名づけましょう。仏縁の浅い人には見せないようにしてください。  

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