歎異抄 第7章 念仏者は無碍の一道

第7章
原文 現代語訳
念仏者は無碍の一道なり。 阿弥陀仏に救われた人は一切がさわりとならない無碍の一道という世界に出ます。  
そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。 なぜならば、阿弥陀仏から救われ、真実の信心を頂いた人には、天地の神も敬って頭を下げ、魔の世界の者、真理に外れた道の者もさまたげることはできないのです。
罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。 罪悪の報いも苦とはならず、どんな努力も及ばないから、一切がさわりとならない、絶対の幸福なのです、と親鸞聖人はおっしゃいました。

目次

親鸞聖人が一生涯教えられたこと



念仏者は無碍の一道なり。


阿弥陀仏に救われた人は一切がさわりとならない無碍の一道という世界に出ます。
歎異抄第七章には、親鸞聖人が一生涯教えてゆかれたことが、一言で書かれています。
親鸞聖人が教えられたことは、
はやく無碍の一道へ出なさい
ということです。

無碍の一道とは、
」とはさわり。
一道」とは世界。
さわりのなくなった世界ということです。
ここには、人生の目的が教えられています。

人生の目的とは、私たちは何の為に生まれてきたのか、何の為に生きているのか、苦しくてもなぜ生きねばならないのか、ということです。
人間は、色々なさわりによって苦しみを受けています。
そして、最大のさわりは、最後、死が来た時には、何のあて力にもならないということです。
死がくれば、すべてに裏切られて、死んでゆかねばなりません。
それで、無碍の一道というのは、どんなものも、さわりにならない世界ですから、死も、さわりにならない世界。
親鸞聖人は、この無碍の一道に出ることが、
人生の目的だと教えられています。
ではその無碍の一道とはどういう世界なのでしょうか。

どうして「さわり」が「さわり」とならないの?



そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、 魔界・外道も障碍することなし。


そのいわれ如何とならば」とは、
どうしてそうなるのかというと」ということです。
信心の行者」とは、
「信心」とは、「真実の信心」であり、
他力の信心」であり、
二種深信」です。
親鸞聖人は
二種深信を体得した人はそういう世界に生かされる」
とおっしゃっていますから、
信心の行者」とは「念仏者」と同じで、
「無碍の一道にでた人」のことです。

ちなみにこの念仏者を「称える念仏」のことだと誤解している歎異抄の解説書もよくありますから注意が必要です。
たとえば、水野聡「現代語訳歎異抄」では、

念仏は、妨げるものの何もない、ただひとつの大道です。(水野聡「現代語訳歎異抄」)

これをもう少し難しく言うと、
佐藤正英「歎異抄論註」はこう意訳しています。

念仏はなにものにも妨げられない絶対的な手だてである。
(佐藤正英「歎異抄論註」)

ひろさちやの「入門 歎異抄の読み方」ではこのように解説しています。

「念仏者」は表面的なかたちで、実体は「念仏」である。(ひろさちや「入門 歎異抄の読み方」)

どうしても念仏と思いたいのか、
曽我量深の「歎異抄聴記」ではこう解説してあります。

念仏者の者は読んでも読まないでもよい。念仏するものはというからむつかしくなるので、これは念仏なるものはというのである。(曽我量深「歎異抄聴記

しかし、念仏者をすぐ後に「信心の行者」と言い換えてありますから、念仏者は当然、「弥陀に救われ念仏する者」の意味であることは明白です。

次に、その念仏者は無碍の一道なりといわれた
無碍の一道」とはどういう世界なのか、 4つあげて教えられています。
ここは、歎異抄を絶讃している倉田百三でも分からないと言っているところです。

「天神地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」といふのは、
法然の文章が「和語燈録」にその意趣が出ているが、
之は不幸にして文字通り私には解らない。
倉田百三「一枚起請文・歎異抄」

はたしてどんな意味なのでしょうか。

まず1つ目は「天神・地祇も敬伏する
天神」とは天の神、地祇とは地の神。
これですべての神です。
天地の神が、敬って平伏すると言われています。
毎年正月になると猫も杓子もみな神社に行って頭を下げています。
ところが、無碍の一道に出た人は神の方から敬って平伏するといわれています。
親鸞聖人は、御和讃に、こうおっしゃっています。


南無阿弥陀仏をとなうれば
梵王帝釈帰敬す
諸天善神ことごとく
よるひるつねにまもるなり

帰敬」とは心から敬って頭を下げるということです。
いやいやでなく、喜んでまもるのです。
しかも、「よるひる」ですから夜も昼もです。
すべての神が、一日中、喜んで守って下されるということです。
仏教では、「諸神」の上が「菩薩」です。
菩薩」とは、仏のさとりを求めて努力している人ですから、
菩薩」の上が「諸仏」です。
そして、「諸仏」の王が「阿弥陀仏」です。


阿弥陀仏
諸仏
菩薩
諸神

では、「諸神」よりも上の、「菩薩」は念仏者にどんな態度をとるのでしょうか。


南無阿弥陀仏を称ふれば
観音勢至はもろともに
恒沙塵数の菩薩と
かげのごとくに身にそへり

観音菩薩、勢至菩薩のような有名な菩薩をはじめ、ガンジス川の砂の数ほどの菩薩も、念仏者によりそって下されるとおっしゃっています。
では「菩薩」の上の「諸仏」はどうでしょうか。


南無阿弥陀仏を称うれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまふなり

念仏者に対して、大宇宙の数限りもない仏方が、百重千重にとりかこんで、喜んで守って下されるということです。
このように、阿弥陀仏によって絶対の幸福に救われた人は、大宇宙のすべてから敬われ、喜び守られるということです。

2つ目は「魔界・外道の人障礙することなし
魔界」とは魔の世界の人。
おばけや一つ目小僧のことではなく、
「無碍の一道に出た?お前は間違っている!」などと、非難攻撃してくる人のことを言います。
外道」とは外の教えということです。
真理からはずれた教えを信じている者です。
真理」とは、すべての結果には必ず原因があるという因果の道理のことです。
因果の道理に立脚した仏教は、真理の内側の教え、「内道」といいます。
因果の道理に反する教えを「外道」というのです。
障礙」とは「」も「」もさわり。
非難攻撃してくる人は全くさわりとはならないということ。

「さわり」がなくなるのではなく懺悔となり歓喜となる



罪悪も業報を感ずることあたわず、 諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。


3つ目は「罪悪も業報を感ずることあたわずですが、
無碍の一道に出た人は
「堕つるに間違いなし」と知らされます。
私達は罪悪を造り通しですから、無碍の一道に出ても、因果の道理によって、罪の報いとして悪い結果が返ってきます。
けどそれが懺悔となり歓喜となります。
そういう世界が無碍の一道です。
これを「煩悩即菩提」といいます。
親鸞聖人は御和讃にこうおっしゃっています。


罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし

罪障」とは、罪悪であり、煩悩です。
功徳」とは、菩提であり、喜びです。
罪障功徳の体となる」とは、罪障がなくなって、功徳になるのではありません。
罪障が、功徳の体となるのです。
」とは何でしょうか。
その関係を次に、たとえで教えられています。
その関係は「こおりとみずのごとくにて
氷と水のような関係だ。
」とは罪悪をたとえ
」とは功徳をたとえています。
こおりおおきにみずおおし
氷が多ければ多いほど、水が多いように
さわりおおきに徳おおし
罪悪が多ければ多いほど、喜びが大きいのだ。
煩悩を断ち切るのではなく、煩悩あるがままで、懺悔となり、歓喜となる世界です。

4つ目は「諸善も及ばずとは、
諸善」とは色々の善です。
因果の道理にしたがい、善い行いをすれば、善い結果がかえってきます。
無礙の一道は、どれだけ善をやった結果も及ばない絶対の幸福の世界だということです。

ではどうすれば無碍の一道に出られるの?



念仏者は無碍の一道なり。


親鸞聖人は、こうおっしゃっています。
念仏者になると、無碍の一道にでられますから、早く念仏者になって無碍の一道にでなさい。
では「念仏者」ときくと、どう思うでしょうか。
念仏称えている人だと思います。
念仏」とは、南無阿弥陀仏を称えることですから、
念仏者」は南無阿弥陀仏と称えている人。
ところが、ただ口で念仏称えている人が念仏者ではないと親鸞聖人おっしゃっています。



然るに称名憶念することあれども無明なお存して、所願を満てざるものあり(教行信証)

念仏を称えていても、苦悩の根元である無明の闇が破れておらず、絶対の幸福に救われていない人がいる。
蓮如上人もおっしゃっています。
御正忌の御文章に、


それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。(御文章)

おほきにおぼつかなき次第なり。」とは
極楽に往生できませんよ。」ということです。
では、念仏者とは、どんな念仏を称えている人かといいますと、称えた念仏で助かろうとする「自力の念仏」ではなく、無碍の一道に出させて頂いた喜びから、お礼の心で念仏を称えずにおれない人です。
この念仏を「他力の念仏」といいます。
他力」とは阿弥陀仏のお力です。
無明の闇」が破れ、「二種深信」のたった人の念仏です。
親鸞聖人は、早く仏教を聞いて、人生の目的である無碍の一道へ出なさいと
一生涯教えてゆかれたのです。

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