歎異抄第10章 念仏には無義をもって義とす
第10章 | |
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原文 | 現代語訳 |
念仏には無義をもって義とす。 | 阿弥陀仏に救われた人の称える他力の念仏は、一切の自力のはからいを離れているのです。 |
不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰せ候いき。 | それは、言うことも説くことも、想像することもできないのですから、とおっしゃいました。 |
目次
人生の目的が完成した他力信心の世界がある
念仏には無義をもって義とす。不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰せ候いき。
「念仏」とは、真実の信心をえての、他力の念仏です。
他力の念仏は、「無義」であるということです。
「義」というのは計らいであり、自力ということです。
親鸞聖人は『末灯鈔』にこう言われています。
「他力には義なきを義とす」と、聖人の仰せごとにてありき。
義ということは、計らう言葉なり。
行者の計らいは自力なれば、義というなり。(末灯鈔)
ここで親鸞聖人が「聖人」といわれているのは親鸞聖人の先生の法然上人のことです。
法然上人が「他力には義なきを義とす」といわれた「義」は計らいであり、自力のことだ、ということです。
ですから、自力がなくなったのが他力です。
自力の心がなくなった世界が、真実の信心の世界だといわれています。
そういう世界は言うこともできないし、説き聞かせることもできません。
また想像もできない「不可称・不可説・不可思議」の世界なのです。
このような無義の世界がある、ということは、完成があるということです。
こういう計らい・自力が浄尽して、きれいになくなる世界があるのです。
それをこういう言葉で言われています。
無礙の一道、その世界は「不可称・不可説・不可思議」の世界
「真実の信心」は、心や口や体の三業で計ることのできない世界なのです。
では「自力」とは何でしょうか?
これは後生の一大事が分からないとわかりません。
ここで「計らい」と言われているのは、後生の一大事に対する計らいであり、阿弥陀仏の本願に対する計らいです。
それ以外は「計らい」とはいいません。
仏教は、後生の一大事を知るところから始まり、後生の一大事の解決に終わります。
仏教を聞けば、後生の一大事を知り、それを解決し、その計らいがすたった世界があるのです。
その計らいがすたったのが、無義です。
それが、人生の目的の完成です。