歎異抄第5章 念仏一返未だ候わず・本当の親孝行とは
第5章 | |
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原文 | 現代語訳 |
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。 | この親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏いっぺんたりとも称えたことは、いまだかつてないのです。 |
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。 | なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりを繰り返す中で、いつの世か、父母兄弟であったことでしょう。 |
いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。 | そんな懐かしい人たちを、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には仏に生まれて助けなければなりません。 |
わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ、ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなり、と云々。 |
それが自分の力で励む善なのであれば、念仏をさしむけて父母を助けることもできましょう。しかし、善などできる私ではなかったのです。 ただ、自力をすてて阿弥陀仏の本願に救われ、仏のさとりを開けば、迷いの世界でどんな苦しみに沈んでも、仏の方便によってご縁のある人を救うことができるでしょう、 と親鸞聖人はおっしゃいました。 |
目次
- 1.この親鸞は、親の追善供養をしたことがないのだよ
- 2.すべての生命はかつて父母兄弟だったかもしれない
- 3.仏教で廻向に2つあります。
- 4.早く救われて御縁の深い人から救うことができる
- 5.追善供養を否定された理由1 機の深信
- 6.追善供養を否定された理由2 親が喜ばない
この親鸞は、親の追善供養をしたことがないのだよ
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ
候わず。
「親鸞はこうだ」と、
自分の名前を打ち出して言われているところは非常に重大なところです。
「これは間違いなく親鸞が言ったんだ」
強い信念で責任のありかをハッキリされています。
「本当にこんなこと言われたんだろうか?」
と思われるようなことを書かれるとき、その疑いを打ち砕くように親鸞聖人はこんな言い方をされます。
「父母の孝養」とは
「父母」とはお父さんお母さん
「孝養」とは追善供養です。
親の追善供養をしたことがないということです。
親鸞聖人は主著の教行信証には繰り返し追善供養は否定されているのですが、
歎異抄第五章には、こういう衝撃的な言葉で、しかも短い言葉で言われています。
「追善供養」とは、善い行いをして、亡くなった方が喜ぶことをしようとすることです。
葬式・法事・読経・念仏・墓を立てる、そんな追善供養するものが仏教と思われています。
みんな、寺と言ったら追善供養するところ、僧侶は追善供養する者、仏教は追善供養する教えと思っています。
この追善供養を親鸞聖人は否定せられたのです。
それでは全仏教の否定だ、と思われませんか?
大変なことを言われたことがわかります。
そうすると、
「寺は何するところ?坊主は何する人?」とみんな驚くことでしょう。
世の中では、生きている時放っておいて、老人ホーム入れていても、死んだら盛大な葬式をして追善供養すれば、感心なやつ。親孝行だとほめられます。
生きている時親孝行しても、追善供養をしないと、
「葬式もしない、法事もしない。線香の一本も立てない。親不孝な奴だ」
と非難されます。
追善供養をしない人は親不孝、追善供養をする人は親孝行、と思うのが、常識です。
それなのに、親鸞聖人は、間違いなく親鸞の言ったことだと名前を出されて
「この親鸞のことじゃがな。亡き父母の追善供養の為に一返の念仏も、一巻のお経も読んだことがないのだよ」
といわれているのです。
もちろんこれは、念仏だけのことではありません。
葬式や読経、その他一切の仏事も含んでのことです。
しかも親鸞聖人が最も慕われたお父さんお母さん、親の追善供養もしたことないということですから、強烈です。
「親鸞、門徒や檀家の追善供養をしたことがない」
でも驚きですが、ましてや一番慕っておられたお父さんお母さんの追善供養をしたことない。
これは大変な驚きです。
一体何をおっしゃったのでしょうか。
すべての生命はかつて父母兄弟だったかもしれない
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。
「有情」とは心(情)の有るものということです。
人間だけではありません。
牛やブタ、犬とか猫とか獣や虫けら、みんな入ります。
生きとし生けるものすべてが「一切の有情」です。
それが、果てしのない遠い過去からのことを考えますと、すべての生きとし生けるものは、かつては父であったかもしれないし、母であったかもしれません。
あるいは兄、弟、姉、妹、という関係であったかもしれません。
深い関係が一切の有情にはあるのだと言われています。
すべての生きとし生けるものは父であり母であり兄であり弟である、これが仏教であり、親鸞聖人のお気持ちです。
人間界だけのこと考えてもそうなのです。
仏教では、すべての人は、果てしのない過去から6つの迷いの世界を生まれては死に、生まれては死に繰り返してきたと教えられています。
地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界の六つです。
この六道を車の輪がまわるがごとく、同じ所をぐるぐるぐるぐる生死生死を繰り返してきたのです。
そうすれば今は猫であっても父であったかもしれません。
母であったかもしれません。
姉であったかもしれません。
こういう関係が偲ばれます。
深い関係があります。
仏教ではそう教えられます。
親鸞聖人も過去何億兆年とさかのぼってのことを言われているのです。
今の私の父、母と言われている人だけが父、母ではない。
いずれの生で父であったかもしれない。母であったかもしれない。
仏教では、人間だけが尊いと見るのではなく生命は同根であり、上下はないと見ています。
仏教では牛や豚、魚に至るまで、私たちも、果てしない遠い過去から、かつては牛、かつては犬、そういう因縁があって人間に生まれ、生死を繰り返しながら今日に至っていると教えられています。
生命は同根。
人間の生命だけが尊いというのではありません。
だから、
『いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり』
すべての生きとし生ける、一切の有情を、自分が仏になって、自分が助けないといけない。
かつての父母・兄弟であった人、いずれもいずれも死んだ後、次の生に仏に成って救わなければなりません。
仏教で廻向に2つあります。
わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ、
もし念仏が、自分の力で励む善ならば、念仏の功徳を差し向けて両親を助けることもできるだろう。
廻向(えこう)とは、与える、差し向けるということです。
廻向に2つあります。
1つには「自力廻向」
2つには「他力廻向」
です。
まず「自力回向」とは、自分のやった善を仏や神や菩薩、死んだ人などに差し向けることです。
「これで助けて下さい」と差し向けます。供養します。
このような、私のやった善根功徳を差し向けることを自力廻向といいます。
歎異抄第五章では、親に、自分のやった善根功徳を差し向けることを追善供養といわれています。
追善供養というのは自力廻向です。
「親鸞は父母の孝養の為に念仏一返にて申したること未だ候はず」
の御言葉は、追善供養を否定せられたということは、自力廻向を否定せられた同じことです。
「他力廻向」とは、阿弥陀仏が私たちに差し向けて下されます。
「他力」とは、阿弥陀仏のお力ですので、差し向けて下される方は阿弥陀仏だけです。
他の仏は、私たちに与えるものを持っていません。
ましてや菩薩、死んだ人も持っていないのです。
自力廻向
私 → 仏・菩薩・神・死んだ人など
他力廻向
私 ← 阿弥陀仏
「他力廻向」というのは阿弥陀仏が私たちに名号を・南無阿弥陀仏を下さるのです。
「わが力にて励む善にても候はばこそ念仏を廻向して父母をも助け候わめ」
だから、念仏が自分の力で励む善なのであれば、さしむけて父母を助けることもできましょう。
しかし、名号南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏から頂いたもので、私は、微塵の善もできない、地獄しか行き場のない者だったのです。
早く救われて御縁の深い人から救うことができる
ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、
六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもって
まず有縁を度すべきなり、と云々。
だから早く自力のうぬぼれを捨てて、真実の自分のすがたが知らされる一念まで求め抜きなさい。
早く救われて、すべての人が苦しみ悩みの人生の海に、溺れて苦しんでいるから、縁のある人から思う存分助けることができるのです。
「神通方便」とは自由自在に助けることができる。
「六道・四生のあいだ」とは果てしのない生死の苦海。
「いづれの業苦に」とはみな苦しんでいるけど
「有縁」とは縁の深い人から助けることができる。
ここで歎異抄の表面に出ているのは、死んで極楽に行って、仏のさとりを開いて、縁のある人を救って行くと書かれています。
しかし第4章にもありましたように、仏のさとりを開かないと人々を救うことができないということではありません。
親鸞聖人も、29才で阿弥陀仏に救い摂られてから、90才でお亡くなりになるまでの61年間、阿弥陀仏の本願を伝える大活躍をされています。
阿弥陀仏の本願に救い摂られて、苦しんでいる人を助ける。
『歎異抄』の第4章と第5章は、注意しませんと、
「死んで極楽へ行かなければ人を助けることできない」
と読んでしまいます。
『教行信証』、その他親鸞聖人の書かれたものは読まずに『歎異抄』ばかり読みますと、注意が必要です。
親鸞聖人の教えは、『教行信証』をよく知って理解した上で『歎異抄』を読むと、本当のこと分かります。
では、結局、親鸞聖人は、なぜ追善供養を否定されたのでしょうか。
2つあります。
1つは機の深信から
2つは追善供養は親の喜ぶことではないからです。
追善供養を否定された理由1 機の深信
「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し」と深信す。(機の深信)
まず1つ目の機の深信とは、
「いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の自分であった、とハッキリした」
こういう自分であることに疑いがなくなったのを機の深信といいます。
親鸞聖人は、9才から29才まで、比叡山での20年の修行の結果は、
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
でありました。
死んだ人に追善供養するのは自分のやった追善供養で死んだ人を助ける、というのが大前提です。
自分に人を助ける力ある。
死んだ親を助けることできる。
そうでなかったらやるはずありません。
しかし、本当の自分の姿が、知らされると自分が助かる縁手掛かり微塵もないとハッキリします。
それなのに自分のやった善で死んだ親を助ける、という自惚れは、どこからも出てこないのです。
全く可能性がないのです。
親鸞聖人が念仏一返も線香一本も立てたことないと言い切られた根底には機の深信があるのです。
追善供養を否定された理由2 親が喜ばない
もう一つは、葬式や法事は親の喜ぶことじゃないんだ、と、親鸞聖人は、本当の追善供養を教えられたのです。
親の追善供養する子供の心、目的は何でしょうか。
葬式や法事が死んだ親の喜ぶというのが、大前提です。
生きている間は喜ぶことをしようともしないで、死んだら喜ぶことしようとします。
親鸞聖人は、葬式や法事は親の喜ぶことじゃないんだ、と本当の追善供養を教えられたのです。
「死んだ親の喜ぶことじゃないんだ。だから親鸞やらない。
親鸞の親がこんなこと喜ぶならやり通すだろう。毎日お経読むだろう」
あれほど両親慕われた親鸞聖人、それが喜ぶことと思われたなら毎日お経読まれたでしょうし念仏称えられたでしょう。
線香立てられたでしょう。
しかし一返もされたことない。
親の喜ぶことじゃないと知られていたのです。
では親の喜ぶことは何でしょうか?
それは、親になって、自分の子供に何を望むかを知れば分かります。
その、子供がしてくれたら嬉しいことを自分が親にしてあげれば親が嬉しくなります。
親がいちばん子供に望むことは色々あると思いますが、つきつめて考えると、次の2つではないでしょうか。
1子供が正しく生きる
2子供が幸せになる
小遣いくれる子供がいい子供と思う親もあるかもしれませんが、
「私は経済的に楽にならなくても、私にくれなくてもいい。子供に正しく生きてもらいたい」
それが親だと思います。
正しく生き抜き、真実の幸福になることが、親に対しての一番の恩返しになるのです。
約2600年前、お釈迦様は、すべての人が本当の幸福になれる道一つを生涯、教えてゆかれました。
仏教の教えによって本当の幸福になり、苦悩渦巻く人生を光明の広海と転じて、明るく強く、たくましく生き抜かせていただける身になることが、本当に親を喜ばせることになるのです。