歎異抄第13章 本願ぼこりは助からない?

第13章
原文 現代語訳
弥陀の本願不思議におわしませばとて悪をおそれざるは、 また本願ぼこりとて往生かなうべからずということ。 「『阿弥陀仏の本願には底がないから、どんな悪をしても助かるのだ』というのは、本願ぼこりといって、助からない者だ」という誤りについて。  
この条、本願を疑う、善悪の宿業を心得ざるなり。 こんなことを言っている者は、阿弥陀仏の本願を疑い、過去世の業を知らない者なのです。 
善き心のおこるも宿善のもよおすゆえなり。悪事の思われせらるるも悪業の計らうゆえなり。 果てしのない遠い過去から生まれ変わり死に変わりを重ねている私たちですが、今生に人間に生まれるまでを過去世といいます。その間の行いは、すべて結果を生み出す因となって、阿頼耶識という蔵のような心に蓄えられています。この阿頼耶識に蓄えられた過去世の業を宿業といいます。やがて縁が来て、その業力と結びつくと、結果となって現れるのです。ですからすべての結果には、必ず因があります。廃悪修善の心が強く、善いことをしようと思うのは過去世に善いたねをまいたからです。廃悪修善の心が弱く、悪いことを思ったりしたりするのも、過去の悪い業のためなのです。  
故聖人の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにいる塵ばかりも、 つくる罪の宿業にあらずということなしと知るべし」と候いき。

今は亡き親鸞聖人は「兎や羊の毛の先の塵のように極めて小さい、どんなに些細な罪も、過去に造らない罪はないから、宿業として阿頼耶識におさまっていない罪は一つもないのだ」と教えて下さったことがあります。阿弥陀如来に救われて、真実の自己がハッキリすれば、どんな悪業も、ないたねなし、まかぬたねなしと知らされるのです。

 またあるとき、「唯円房はわが言うことをば信ずるか」と仰せの候いし間、 またあるときこんなことがありました。親鸞聖人が「唯円房、そなた、私の言うことを信ずるか」とおっしゃったので、  
 「さん候」と申し候いしかば、 「もちろんでございます、聖人さまのおっしゃることなら、私は何でも行います」とお答えすると、  
「さらば言わんこと違うまじきか」と重ねて仰せの候いし間、つつしんで領状申して候いしかば、 「本当だな、二言はないな」と念を押されるので「はい、それはもう二言はございません。おっしゃることは何なりと従います」とお答えしました。  
「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候いしとき、 すると「では言おう。たとえば人を千人殺してこい。そうしたらいつ死んでも極楽往ける身になるよ」とおっしゃった。  
「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候いしかば、 そのとき「ああそれは、親鸞聖人のおっしゃることでも、この唯円の能力では、千人どころか一人も殺すことはできません」と申し上げると、  
「さてはいかに親鸞が言うことを違うまじきとは言うぞ」と。 「それでは二回も親鸞の言うことを聞くと言っていたのはどうなったのだ?」と言われました。  
「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。 「これで分かるだろう。何ごとも自分の思った通りにできるのなら、極楽参りの為に人を千人殺せと言われたら、素直に殺しに行くだろう。  
しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。 しかし一人も殺すことできないのは、そういう縁がそなたにないからだ。  
わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と仰せの候いしは、 そなたの心が善いから殺さないのではない。 もしそなたにそういう縁がくれば、そんなことをしてはいけないと思っても、百人千人と殺すのだ」とおっしゃったのは、  
我らが心の善きをば善しと思い、 悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せの候いしなり。 善いことを思えるときは何とかなるように思い、悪ばかり思えるときは、これでは助からないのではないかと思って、弥陀の救いは、まったく阿弥陀仏の独りばたらきであることが知らされていないことを、教えてくだされたのです。
そのかみ、邪見におちたる人あって、「悪をつくりたる者を助けんという願にてましませば」とて、わざと好みて悪をつくりて、「往生の業とすべき」由を言いて、 ようように悪し様なることの聞こえ候いしとき、 かつて聞き誤った人がいて「阿弥陀さまは悪人をお目当てに救うとお約束されている」のだから、わざと進んで悪を造って「極楽へ往く足しにしなさい」と言いふらし、色々とよくないことが起きていることが聞こえてきました。
御消息に「薬あればとて毒を好むべからず」とあそばされて候は、かの邪執を止めんがためなり。 そのとき親鸞聖人は、「薬がある、だから毒を好め、そんなバカなことを言うやつがあるか!あるはずないだろう」とお手紙に書いておられたのは、この聞き誤りを正されるためでした。
まったく「悪は往生の障りたるべし」とにはあらず。 しかし親鸞聖人がこうおっしゃったのは、毒が回って阿弥陀仏が助けられないと言われているのではありません。
持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、我らいかでか生死を離るべきや。 身口意の三業をよくして後生の一大事助かるのだとすれば、お釈迦さまが説かれるように「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」の私たちは、どうして救われるでしょうか。
かかる浅ましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられ候え。 そんな悪しかできない私たちが、阿弥陀仏の本願に救われたならば、弥陀の本願の尊さを仰がずにおれません。みな本願ぼこりにならずにおれないのです。
さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられ候わじものを。 だからといって一生悪を造り通しの私たちに、悪果が来なくなるわけではありません。当然起きてくる不幸や災難は、過去に自分が造っていない悪業の結果は、決して出てはこないのですから、自分がまいたタネなのです。
また、「海河に網をひき釣りをして世を渡る者も、野山に獣を狩り鳥をとりて命をつぐ輩も、商いをもし田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり」と。 また聖人は「海や河で、網や魚釣りで生活する者も、野山で鳥や動物を殺して生きる者も、商人や農家で暮らしている人も、罪を造らずしては生きられない私たちは、過去世からの深い業をかかえていることはまったく同じことなのだ」ともおっしゃいました。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」とこそ、聖人は仰せ候いしに、 「この親鸞も、縁さえくれば、どんなことでもするであろう」とおっしゃっています。阿弥陀仏の光明に照らされて、阿頼耶識の中にありとあらゆる悪業を持っている真実の自己をハッキリと知らされられた親鸞聖人は「阿弥陀仏に救われても、あんなことだけは絶対しないと断言できるものではない」とおっしゃっているのです。
当時は後世者ぶりして、善からん者ばかり念仏申すべきように、あるいは道場に貼り文をして、「何々の事したらん者をば、道場へ入るべからず」なんどということ、ひとえに賢善精進の相を外に示して、内には虚仮を懐けるものか。 それなのに最近は「我こそは仏法者なり」という殊勝そうな顔で、さも仏法を聞いているのは立派な人ばかりであるかのように振る舞ったり、道場にはり紙をして、「あんな人は仲間に入れないでおこう」と言っているのは、表面ばかりかっこつけて、心を見れば自分が悪人であることに気づいていないのです。
願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよおすゆえなり。 阿弥陀仏を信じて造る罪も、過去世の業力によるものなのです。
されば善きことも悪しきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にては候え。 過去世にありとあらゆる悪業があるのだから、縁さえくればどんなことでもするのですが、心や口や身体で善をするか悪をするかは、極楽へ往くには関係ありません。悪しかできない私たちは、ひとえに平生に信心決定するかどうかで往生が決するのです。
『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救われ難しと思うべき」と候ぞかし。 『唯信抄』にも「こんな罪深い私は助からないのではなかろうかとは、阿弥陀仏のお力がどれほどか分かっているのか?」とあったではありませんか。阿弥陀仏のお力に底を入れて、自分の力が役立つと思っている、とんでもない自惚れです。
本願にほこる心のあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候え。おおよそ悪業煩悩を断じ尽くして後、本願を信ぜんのみぞ、願にほこる思いもなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなわち仏になり、仏のためには五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。 その自惚れが廃ったと同時に、他力に入るのです。もし悪業煩悩を完全に断ち切って本願を信ずるのであれば、本願にほこる思いはないでしょう。そもそも煩悩をすべて断ち切ってしまったら、もう仏ですから、阿弥陀仏の五劫思惟のご苦労の意味がないではありませんか。
本願ぼこりと誡めらるる人々も、煩悩不浄具足せられてこそ候げなれ。それは願にほこらるるにあらずや。 「あれは本願ぼこりだ、ダメだ」と言っている人も煩悩具足の悪しかできない身でありましょう。阿弥陀仏の本願によらずして助かりますか。
いかなる悪を本願ぼこりという、いかなる悪がほこらぬにて候べきぞや。かえりて心幼きことか。 「『悪人正機の本願だから、どんな悪をしても助かるのだ』というのは本願ぼこりで助からない」というなら、どんなすごい悪なら本願ぼこりで、どんな悪までなら本願ぼこりと言わないのか。まるで子供みたいな言い分じゃありませんか。

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