センター試験と歎異抄
センター試験
センター試験は、以前、大学入試で、各大学で共通して行われていた試験です。
以前は共通一次といわれていましたが、1990年から「大学入試センター試験」といわれるようになりました。
その後2021年からは「大学入学共通テスト」となっています。
『歎異抄』は、センター試験で、よく題材にあげられていました。
日本思想史上、『歎異抄』は重要な位置づけにあり、しかも非常に美しい文章で書かれているので、出題したくなるのもうなづけますし、大変いいことです。
例えば2001年のセンター試験の倫理では、『歎異抄』について大々的に取り上げられました。
2001年 センター試験 倫理
第3問
次の文章は、「歎異鈔」の一部を、意味を補いながら現代語訳したものである。
これを読んで下の問いに答えよ。
あなた方が、はるばる関東から京都まで十あまりの国々の境を越えて、命がけで訪ねて来られたご本心は、ひとえに極楽往生の方法を問い聴いて明らかにするためでありましょう。
けれども、このわたしが念仏以外の往生の方法を知っているのではないかとか、またそのことを書きしるした書物なども知っているのではないか、とお考えならば、それは大きな間違いです。
もしそうしたことをお聴きになりたいのであれば、奈良やa(比叡山)にすぐれた学者がたくさんおられますので、その人々にお会いになって往生するのに必要なことをよくよく尋ねられるがいいでしょう。
わたしには、
「念仏をとなえ、阿弥陀仏に救ってもらうがよい」
という先生の教えを受けて信ずるほかに特別なことは何もないのです。
念仏をとなえることが、浄土に生まれる因であるのか、また地獄に落ちる業であるのか、(A)。
たとえ先生にだまされて、b(念仏をとなえたために地獄に落ちた)としても少しも後悔いたしません。
もしも、念仏以外の修行に励むことによって成仏できるはずの身が念仏をとなえたために地獄に落ちたというのであれば、だまされたという後悔もあるでしょう。
しかし、どのような修行もできないわたしのような、煩悩にまみれ罪悪に満ちた人間は、所詮地獄に落ちるべく決まっているからです。
阿弥陀仏の本願がまことであるならば、c(釈尊)がお説きになった教えも嘘いつわりであるはずはありません。
釈尊の教説がまことであるならば、善導が解釈なされたことが嘘いつわりであるはずはありません。
善導の解釈がまことならば、(20)先生が語られたことが嘘いつわりであるはずは
ありません。
(20)先生の言葉がまことならば、わたしが申し上げるところもまたいつわりではありえないでしょう。
d(つまるところ、わたしの信心は以上のようなものです)。
この上は念仏を信じようとも、あるいは捨てようとも、
あなた方一人一人がお決めになることなのです。
———このように、(21)先生はおっしゃいました。
問1
文中の(20)(21)に入れるのに最も適当なものを、次の1〜5のうちから一つずつ選べ。
1:法然2:蓮如3:親鸞4:唯円5:源信
問2
a( )に関して、比叡山に延暦寺を建立した最澄についての記述として最も適当なものを、次の1〜4のうちから一つ選べ。
1:正しい仏教を樹立することによって、立正安国が達成されると主張した
2:「法華経」の教えを中心とし、すべての衆生に仏性があることを強調した
3:ひたすら修行をすることが、そのまま悟りの証であると考えた
4:この宇宙の諸事象は、すべて大日如来のあらわれであると説いた
問3
b( )に関して、念仏をとなえる者は地獄に落ちるという念仏無間説を説いた思想家は誰か。
次の1〜4のうちから一つ選べ。
1:一遍2:日蓮3:栄西4:道元
問6
文中の(A)に入れるのに最も適当なものを、次の1〜4のうちから一つ選べ。
1:いずれもまったく信じられません
2:いずれかようやくわかりました
3:いずれともまったくわからないのです
4:いずれか重々よくわかっております
問8
本文の趣旨に照らして、阿弥陀仏の本願に関する記述として適当でないものを、次の1〜4のうちから一つ選べ。
1:阿弥陀仏の本願が正しいのであれば、自らの力で善や修行をなしえないというような悪人が往生できないわけはない
2:阿弥陀仏の本願への信は、最終的には信者一人一人の心の問題であって、一般的な言葉の説明のみで括れる事柄ではない
3:阿弥陀仏の本願の正しさは、阿弥陀仏以来の、師から弟子へと伝えられてきた現実の歴史の流れにおいて客観的に証明されている
4:阿弥陀仏の本願への信には、信者自身の救われがたさの自覚と、そうした救われがたい者こそが救われるという信が含まれている
答え
問1:(20)…1、(21)…3
問2:2
問3:2
問6:3
問8:3
出題者の間違っているところ
これは、歎異抄第2章の現代語訳を試みた文章から問題を出したものです。
詳しい内容は、このサイトの第2章のページをご覧頂けば分かります。
『歎異抄』は非常に高度なので無理もありませんが、おそらく門外漢であろうこの出題者には少々荷が重かったようすがにじみ出ています。
例えば問6の答えは、
「いずれともまったくわからないのです」
が正解とされていますが、
原文は「総じてもって存知せざるなり」です。
これは「まったくもって親鸞の知るところではない」
ということで、反語です。
つまり「そんなこれまで20年間繰り返し教えてきたことを、今さら言わせるおつもりか、そなたがたは!そんなこと知るか!」という意味です。
直訳は「いずれともまったくわからないのです」
かもしれませんが、心はまったく違います。
そのような解釈では、最初のほうで現代語訳している
「このわたしが念仏以外の往生の方法を知っているのではないかというのは間違いです」
というところとも合わなくなります。
問8では、「阿弥陀仏の本願が正しいのであれば」
が正しいとされていますが、親鸞聖人は「誠なるかなや、阿弥陀仏の本願」といわれ、「阿弥陀仏の本願本当だった」といわれています。
「正しいのであれば」と仮定されるはずがありません。
親鸞聖人にとって阿弥陀仏の本願は正しいのですから、これも本文の主旨と照らして適当ではありません。
『歎異抄』には、このようなレベルの解釈があふれています。
文法にもとづく単なる直訳ではなく、親鸞聖人の著作全体から、心を伝えて欲しいものです。