歎異抄の著者は?
『歎異抄』は、日本で最も読まれる仏教書でありながら、著者は分かっていません。
そのため色々な憶測を呼んでいます。
現在では著者は親鸞聖人の高弟の唯円であろうと言われています。
一体どうしてなのでしょうか?
そして唯円とはどんな人だったのでしょうか?
目次
歎異抄の著者の憶測
『歎異抄』の著者は不明です。
『歎異抄』に著者名が書かれていないのです。
名前を書かないということは、匿名によるネットの書き込みと同じで、無責任なだけではないか、というと、そうでもありません。
書かれた後何百年も読み継がれる内容を、あれだけ美しい文章で書かれているので、自分の名前を書いたほうが、名誉であり、誇りとなるはずです。結果的に、歴史にも名前が残ります。
そんなすごい深い内容と、類い希な文章力を持ちながら、自分の名前を書き残さないというのは、普通では考えられないことです。
『歎異抄』に残された謎の一つとして、昔から色々な憶測を呼んでいます。
例えば、『歎異抄』の著者は大変謙虚な人だったというものです。
「自分の先生の親鸞聖人のお言葉を書き残すのだから、とても自分が著者というわけにはいかない」
ということで、名前を記さずに、親鸞聖人のお言葉そのままだということを表そうとしたのではないか、という人もあります。
また、『歎異抄』にはきわどい内容がたくさん書き残されているため、浄土真宗の教えを混乱させようとした、浄土宗の回し者が、あえて著者名を記さずに、読み誤れば大変なことになる内容を書いたのではないか、という人もあります。
色々な憶測を生みながらも、『歎異抄』の内容から、現在では、唯円(ゆいねん)ではないか、といわれています。
何を根拠にそんなことが言われるようになったのでしょうか?
歎異抄の著者を推定する根拠
覚如上人という根拠
『歎異抄』は、それ自体に著者は書かれていなかったのですが、伝えられる目録には、著者を浄土真宗の2代目の如信(にょしん)上人であると書いた目録と、3代目の覚如(かくにょ)上人であると書いた目録がありました。
また、序文は覚如上人で、内容は一部如信上人とする説もありました。
如信上人という根拠
ところが江戸時代になると、覚如上人ではなく、如信上人であろうと言われるようになりました。
なぜなら、『歎異抄』には、「故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれをしるす」とあるのに、覚如上人は親鸞聖人がお亡くなりになってから生まれられたので、直接聞いて耳の底に残っていることはないだろうからです。
さらに、覚如上人が如信上人から聞いたことを書かれた『口伝鈔』という本があります。
その中に、『歎異抄』第3章に出てくる「善人なおもて往生す、いかにいわんや悪人をや」と、
『歎異抄』第1章に出てくる「善もほしからず、また悪もおそれなし」、
第13章に出てくる「人を千人殺害したらば、やすく往生すべし」という問答が出てきます。
これらのことから、覚如上人ではなく、如信上人だろうと言われるようになりました。
唯円という根拠
ところが江戸時代の終わり頃、如信上人では合わない所が見つかりました。
それは『歎異抄』別序の「同じ志にして歩みを遼遠の洛陽に励まし」です。
これは、関東にいたお弟子が、親鸞聖人のお住まいの京都に歩いてきたという意味です。
そして『歎異抄』第2章には、「十余カ国の境を越えて」とあります。
関東から10カ国の国境を越えて京都まで歩いてきた人が、親鸞聖人からご教導を頂き、そのお言葉を書き残したことになります。
如信上人は、常に親鸞聖人のお膝元でしたので、このようなことはないのです。
そして『歎異抄』に出てくる人は唯円だけで、第9章と第13章に出てきます。
第9章の「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」 と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」とあります。
これは、親鸞聖人と唯円の問答を、別の著者が横で聞いていたか、後で唯円から又聞きして書いた第3者の文章ではありません。
自分が申し上げたという文章です。
第13章の「あるとき、『唯円房はわが言うことをば信ずるか』と仰せの候いし間、『さん候』と申し候いしかば」というのも、本人が書いたときの書き方です。
これらのことから、現在では、『歎異抄』は唯円が書いたのであろうというのが、定説になったのです。
では、唯円とはどんな人だったのでしょうか?
唯円とはどんな人?
親鸞聖人のお弟子に唯円は何人かありますが、歎異抄の著者とされるのは河和田(かわだ)の唯円です。
この唯円は、教えも深く理解し、文章力もあり、覚如上人の伝記である『慕帰絵』によれば、19歳の覚如上人の疑問に答えて解決したといわれる大徳です。
では、最初からそんな立派な人だったのかというと、まったくそうではありませんでした。
唯円が開いたといわれる河和田(現在の茨城県水戸市の郊外)にある報仏寺に伝承が伝えられています。
殺生を好む悪人・平次郎
唯円は、もとの名前を平次郎といいました。
因果応報の道理を知らず、殺生を好む、自分勝手な悪人でした。
ところが、平次郎の奥さんは、仏縁深く、夫の目を盗んでは親鸞聖人の稲田の草庵に参詣し、仏教を聞いていました。
あるとき平次郎の妻が、「うちの旦那は仏法を謗り、家に帰ると念仏も称えられない」と親鸞聖人にご相談しました。
親鸞聖人は話を聞かれると、浄土真宗の御本尊である名号を書き与えたのでした。
喜んだ平次郎の妻は、手箱に隠して、夫が外出した時に、お供えをしたり礼拝したりして念仏を称えていました。
ところが、ある日、平次郎が外出したと思ったら、すぐ帰ってきたのです。
驚いた妻が急いで御名号を隠すと、平次郎は、誰か別の男からのラブレターを急いで隠したように見えました。
「今隠したものは何だ」と問い詰めると、奥さんは「見つかったら名号が捨てられてしまう」と一目散に逃げ出します。
逆上した平次郎は、追いかけていき、怒りの余り背後から思い切り斬りつけます。
妻に斬りつけ自ら殺す
刀は肩から胸まで食い込み、血しぶきをあげて妻は死んでしまいました。
我に返った平次郎は、一時の怒りで大切な妻を殺してしまったことを深く後悔しましたが、もう取り返しがつきません。
妻の遺体をムシロで包んで裏山に埋めて家に帰ってきました。
すると、今殺して埋めたはずの妻が、出迎えるではありませんか。
驚いた平次郎は、今あったことを話します。
妻は名号を確認すると、あるはずの場所になくなっていました。
顔を見合わせた2人は、裏山に行って、遺体を埋めた場所を掘り返してみると、斜めに切られ、血で染まった名号が出てきたのです。
平次郎の妻は、自分の代わりに斬られた御名号に申し訳なく、涙ながらに念仏を称えて喜びました。
平次郎も、自らの手で妻を殺したはずのところ、身代わりになって助けてくだされたことに喜び、泣きながら伏して御名号を拝み、感謝と安堵に涙が止めどもなくあふれ、止まりませんでした。
それから2人は親鸞聖人の稲田の草庵に参詣し、ことの次第をお話しすると、「阿弥陀如来の作られた御名号は、悪人を救う働きのあるものだから、その表れであろう」と教えてくだされたのです。
平次郎は、深く懺悔して、お弟子となりました。
お弟子になってからの唯円
こうして平次郎は唯円となり、親鸞聖人から教えを聞き、勉学に励むのでした。
さらに報仏寺に次いで唯円が開いた奈良県の立興寺の伝承によれば、親鸞聖人が還暦過ぎて常陸から京都へ帰られると、唯円は35歳頃に十余カ国の境を越えて上京し、続けて教えを受けます。
41歳のときに親鸞聖人がお亡くなりになると、京都から常陸の河和田に戻り、報仏寺を開きます。
やがて53歳頃には奈良県へ招かれ、現在の立興寺を開きます。
その後、60歳の頃、覚如上人に教えを伝え、68歳で亡くなったといわれます。
『歎異抄』は、覚如上人に教えを伝えられた頃に書かれたものといわれます。
親鸞聖人の教えではないことを親鸞聖人の教えだという者が沢山現れてきたので、親鸞聖人から直接お聞きしたお言葉を書き残し、誤りを正そうとされたものです。
しかし、その文章は陶酔的で余りに美しく、信じられないことばかり書かれていますので、誤解しやすいものです。
『歎異抄』を読むときは、十分に気をつけるようにしてください。