歎異抄の現代語訳(対訳)
目次
- 前序 歎異抄を書いた目的
- 第一章 善も欲しからず悪をも恐れず
- 第二章 地獄は一定すみかぞかし
- 第三章 悪人こそが救われる 悪人正機
- 第四章 慈悲といっても2つある
- 第五章 念仏一返未だ候わず・本当の親孝行とは
- 第六章 親鸞弟子一人も持たず
- 第七章 念仏者は無碍の一道
- 第八章 人生の目的を完成した他力の念仏
- 第九章 浄土は恋しからず候
- 第十章 念仏には無義をもって義とす
(ここでは歎異抄第1~10章までの現代語訳を掲載しています)
前序 現代語訳 歎異抄を書いた目的
前序 | |
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原文 | 現代語訳 |
ひそかに愚案を廻らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、 | ひそかに愚かな思いをめぐらせて、かつて親鸞聖人から教えて頂くことができたあの頃と、今日を考えてみますと、 聖人から直接教えて頂いた他力真実の信心と、異なることが説かれて いるのは、なんと嘆かわしいことでしょうか。これでは聖人の教えを学ぶ後輩が、正しく学び、伝えるのに、疑いや惑いが生じかねません。 |
幸いに有縁の知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。 | 幸いにも正しい仏教の先生におあいし、導きを受けなければ、どうして真実の仏教の教えを学び、阿弥陀仏の救いにあうことができるでしょうか。 |
まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。 | 決して、自分の考えで、真実の仏教の教えを乱してはならないのです。 |
よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。 | そこで、今は亡き親鸞聖人がよく語って下された、耳の底に残る忘れられない御言葉を 少しでも書き残しておきたいと思います。 |
ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり。 | これはひとえに親鸞聖人の教えを学び求める同志の不審をはらしたいからなのです。 |
解説はこちら 歎異抄前序
第1章 現代語訳 善も欲しからず悪をも恐れず
第一章 | |
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原文 | 現代語訳 |
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と 信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、 すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 | 「すべての人を救う」という、阿弥陀仏の不思議なお約束に助けられ、いつ死んでも極楽往き間違いなしの身となって、お礼の念仏称えようと思いたつ心のおきた時、おさめとって捨てられない、絶対の幸福に生かされたのです。 |
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。 | 阿弥陀仏の救いには、年老いた人も、若い人も、善人も、悪人も、一切の差別はありません。ただ、真実の信心一つで救われるのです。 |
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。 | なぜ悪人でも、阿弥陀仏の本願を信ずる一つで救われるのかといえば、煩悩の激しい、最も罪の重い悪人を助けるために立てられたのが、阿弥陀仏の本願だからです。 |
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさる べき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。 |
ですから、この世で阿弥陀仏の本願に救い摂られたならば、往生の一段においては、一切の善は無用となります。阿弥陀仏から頂いた念仏以上の善はないからです。また、どんな悪を犯しても、死んだら地獄へ堕ちるのではなかろうかという不安やおそれはまったくなくなります。阿弥陀仏の本願で助からない悪はないからです。と親鸞聖人と仰になりました。 |
解説はこちら 歎異抄第1章
第2章 現代語訳 地獄は一定すみかぞかし
第二章 | |
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原文 | 現代語訳 |
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめた まう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。 | そなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から命をかけて、この親鸞を訪ねられたお気持は、極楽に生まれる道ただ一つ、問いただす が為であろう。 |
しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、 また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしまして はんべらば、大きなる誤りなり。 | だがもし親鸞が、阿弥陀仏の本願のほかに、助かる道や、 秘密の法文を知っているのではなかろうかと、この親鸞をいぶかっ ての参上ならば、とんでもない誤りであり、まことにもって悲しい限りである。 |
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かる べきなり。 | それほど信じられぬ親鸞ならば、奈良や比叡にでも行かれるがよい。 あそこには立派な学者が、たくさんいなさるから、それらの方々に、後生の助かる道、とくとお聞きなさるがよかろう。 |
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、 よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。 | 親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教えるよき人・法然上人の仰せにしたがい、信ずるほかに、何もないのだ。 |
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また 地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。 | 念仏は地獄へ行く悪い言葉という者があるようだが、そういうことなのか、 それとも20年間教えてきたように、極楽往くたねか、 今さらこの親鸞に、言わせるおつもりか。まったくもって親鸞の知るところではない。 |
たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候。 | たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても、親鸞何の後悔もないのだ。 |
そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を 申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という 後悔も候わめ。 | なぜならば、念仏以外の修行に励んで仏になれる私が、念仏したから地獄に落ちたのであれば、だまされたという後悔もあろう。 |
いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 | だが、微塵の善もできない親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである。 |
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。 仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。 善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。 法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかる べからず候か。 | ああ、弥陀の本願まことだった。 弥陀の本願まことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。善導の御釈がまことならば、そのまま教えられた、法然上人の仰せにウソ偽りがあろうはずがないではないか。法然の仰せがまことならば、そのまま伝える親鸞の言うことも、そらごととは言えぬのではなかろうか。 |
詮ずるところ、愚身が信心におきてはかくのごとし。 このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、 面々の御計らいなり、と云々。 | いくら言っても親鸞の信心、このほか何もござらぬ。 この上は念仏を捨てようと、親鸞に同心して、念仏を 信じたてまつろうとも、おのおのがたの、勝手になさるがよかろう、と聖人は仰せになりました。 |
解説はこちら 歎異抄第2章
第3章 現代語訳 悪人こそが救われる 悪人正機
第三章 | |
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原文 | 現代語訳 |
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。 | 善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。 |
しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや 善人をや」。 | ところが、世間の人は常に 「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」 と言っています。 |
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、 本願他力の意趣に背けり。 | これは一見それらしく聞こえますが、 阿弥陀仏が本願をたてられた趣旨に反するのです。 |
そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる 間、弥陀の本願にあらず。 | なぜならば自分の力で後生の一大事の解決をしようとしている 間は、他力をたのむことができないので、阿弥陀仏のお約束の対象 にはならないのです。 |
しかれども、自力の心をひるがえして、 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。 | しかし、自力をすてて他力に帰すれば、 真実の浄土へゆくことができるのです。 |
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを 憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。 | 欲や怒りや愚痴などの煩悩でできている私たちは、どうやっても 迷いを離れることができないのを、阿弥陀仏がかわいそうに 思われて本願をおこされたねらいは、悪人成仏のためですから、阿弥陀仏のお力によって、自惚れをはぎとられ、醜い自己を 100%照らし抜かれた人こそが、この世から永遠の幸福に生かされ、死んで極楽へ往くことができるのです。 |
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。 | それで、善人でさえ助かるのだから、まして悪人はなおさら 助かると仰になったのです。 |
解説はこちら 歎異抄第3章
第4章 現代語訳 慈悲といっても2つある
第四章 | |
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原文 | 現代語訳 |
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。 | 慈悲といっても、聖道仏教と浄土仏教では違いがあります。 |
聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。 | 聖道仏教の慈悲とは、他人や一切のものをあわれみ、いとおしみ、大切に守り育てることをいいます。 |
しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。 | しかしながら、どんなに頑張っても、思うように満足に助けきることは、ほとんどありえないのです。 |
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心を もって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。 | 浄土仏教で教える慈悲とは、はやく阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称えて仏になる身となって、大慈悲心をもって思う存分人々を救うことをいうのです。 |
今生に、いかにいとおし不便と思うとも、存知のごとく助け難けれ ば、この慈悲始終なし。 | この世でどんなにかわいそうに、何とかしてやりたいと思っても、ご承知の通り、助けきることは難しいですから、聖道の慈悲は、一時的で徹底しないのです。 |
しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき、と云々。 | だから、阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称える身になることのみが、徹底した大慈悲心なのです、と親鸞聖人は仰せになりました。 |
解説はこちら 歎異抄第4章
第5章 現代語訳 念仏一返未だ候わず
第五章 | |
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原文 | 現代語訳 |
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。 | この親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏いっぺんたりとも となえたことは、いまだかつてないのです。 |
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。 | なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりを くり返す中で、いつの世か、父母兄弟であったことでしょう。 |
いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。 | そんな懐かしい人たちを、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には 仏に生まれて助けなければなりません。 |
わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも 助け候わめ、ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、 六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便を もってまず有縁を度すべきなり、と云々。 | それが自分の力で励む善なのであれば、念仏をさしむけて父母を 助けることもできましょう。しかし、善などできる私ではなかっ たのです。ただ、自力をすてて阿弥陀仏の本願に救われ、 仏のさとりを開けば、迷いの世界でどんな苦しみに沈んでも、 仏の方便によってご縁ののある人を救うことができるでしょう、 と親鸞聖人はおっしゃいました。 |
解説はこちら 歎異抄第5章
第6章 現代語訳 親鸞弟子一人も持たず
第六章 | |
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原文 | 現代語訳 |
専修念仏の輩の、「わが弟子、ひとの弟子」という相論の候らん こと、もってのほかの子細なり。 | 阿弥陀仏の救いを聞かせていたただいている人の、 「あの人は私の弟子だ、あの人は人の弟子だ」という争いは、 もってのほかのあやまりです。 |
親鸞は弟子一人ももたず候。 | この親鸞は、一人の弟子もありません。 |
そのゆえは、わが計らいにて人に念仏を申させ候わばこそ、 弟子にても候わめ、ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏 申し候人を、「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり。 | なぜなら、私が教えてみなさんが阿弥陀仏に救われたのならば、 私の弟子ともいえるかもしれません。 しかし、みなさんが仏法を聞き始められたのも、 求められたのも、阿弥陀仏に救われたのも、 まったく阿弥陀仏のお力によってなのですから、 そんな人を「私の弟子だ」などというのはとんでもない傲慢なことです。 |
つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離るることのあるをも、 「師を背きて人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなり」 なんどいうこと不可説なり。 | 縁あれば連れ添い、なくなれば別れることもあります。 師匠に背いて他の人について阿弥陀仏に救われたら、 死んで極楽へ往くことはできないなどと、いえるものではありません。 |
如来より賜りたる信心を、わがもの顔に取り返さんと申すにや。 | 阿弥陀仏から頂いた真実の信心を、わがもの顔に取り返そうと言うのでしょうか。 |
かえすがえすも、あるべからざることなり。 | 重ねて念を押しますが、あってはならないことなのです。 |
自然の理にあいかなわば、仏恩をも知り、また師の恩をも知る べきなり、と云々。 | 真実の阿弥陀仏の救いにあえば、阿弥陀仏の御恩も知らされ、 それを伝えて下された先生のご恩も知ることになるでしょう、 とおっしゃいました。 |
解説はこちら 歎異抄第6章
第7章 現代語訳 念仏者は無碍の一道
第七章 | |
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原文 | 現代語訳 |
念仏者は無碍の一道なり。 | 阿弥陀仏に救われた人は一切がさわりとならない無碍の一道という世界に出ます。 |
そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、 魔界・外道も障碍することなし。 | なぜならば、阿弥陀仏から救われ、真実の信心を頂いた人には、 天地の神も敬って頭を下げ、魔の世界の者、真理に外れた道の者も さまたげることはできないのです。 |
罪悪も業報を感ずることあたわず、 諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。 | 罪悪の報いも苦とはならず、どんな努力も及ばないから、 一切がさわりとならない、絶対の幸福なのです。 と親鸞聖人はおっしゃいました。 |
解説はこちら 歎異抄第7章
第8章 現代語訳 人生の目的を完成した他力の念仏
第八章 | |
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原文 | 現代語訳 |
念仏は行者のために非行・非善なり。 | 念仏は、阿弥陀仏に救われて人生の目的を完成した人にとって、 行でもなければ善でもない。 |
わが計らいにて行ずるにあらざれば非行という、 わが計らいにて つくる善にもあらざれば非善という。 |
阿弥陀仏に救われたならば、自分の力で後生の一大事助かろうと して称えるのではないから、私の行でもないし、私の善でもない。 |
ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・ 非善なり、と云々。 | ひとえに阿弥陀仏のお力で称えさせられる他力の念仏であって、 自力を離れているのだから、阿弥陀仏に救われた人にとっては、 行でも、善でもないのです、とおっしゃいました。 |
解説はこちら 歎異抄第8章
第9章 現代語訳 浄土は恋しからず候
第九章 | |
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原文 | 現代語訳 |
「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」 と申しいれて候いしかば、 | 「念仏称えても、喜ぶ心がおきません。 また、はやく極楽へいきたいという心もありません。 どうしてでしょうか」と親鸞聖人にお尋ねしましたところ、 |
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。 | 「親鸞もこの心、疑問に思っていたのだが、唯円房おまえもか。 |
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを 喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。 | よくよく考えてみれば、天におどり地におどるほどに喜ばねばならないことを、 喜ばないところが、いよいよいつ死んでも極楽参り間違いなし」と 思わずにおれないのだ。 |
喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。 | 喜ばねばならないところ、喜ばせないのは、煩悩のしわざである。 |
しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたる ことなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけり と知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。 | しかるに阿弥陀仏は、百もご承知で、煩悩具足の凡夫を助けると 仰せられのだから、他力の悲願は、このような私たちの為であった と知らされて、いよいよ頼もしく、喜ばずにおれないのだ。 |
また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、 死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。 | また、早く極楽へゆきたいという心もなくて、少し病気になると 死ぬのではなかろうかと、心細く思うのも煩悩のしわざである。 |
久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、 いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、 まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。 | 阿弥陀仏に救われた今、もう迷いの世界と縁切りで、二度と迷う ことはないと思うと、はてしなき遠い過去から、今日まで生まれ 変わり死に変わり迷い続けてきた苦悩の世界はなつかしく、 まだ見ぬ阿弥陀仏の極楽浄土は少しも恋しいと思えないところが、 これまたよほどの煩悩のさかんな私であることよ。 |
名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終わるときに、 かの土へは参るべきなり。 | 名残おしいことだが、娑婆の縁つきて、この命終われば、 阿弥陀仏の極楽参りは間違いない。 | 急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたまうなり。 | はやく極楽にいきたいという心のない迷いの深い者を ことさら阿弥陀仏は憐れんでくだされたのだ。 |
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と 存じ候え。 | それを思えば、いよいよ阿弥陀仏の大慈悲のたのもしく、 極楽参り間違いないと思わずにおれないではないか。 |
踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩の なきやらんと、あやしく候いなまし」と云々。 | それを、喜びの心があり、早く極楽にいきたいと思っていたら 煩悩具足ではないのではないかとあやしく思うのではないだろうかと おっしゃいました。 |
解説はこちら 歎異抄第9章
第10章 現代語訳 念仏には無義をもって義とす
第十章 | |
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原文 | 現代語訳 |
念仏には無義をもって義とす。 | 阿弥陀仏に救われた人の称える他力の念仏は、一切の自力のはからいを離れているのです。 |
不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰せ候いき。 | それは、言うことも説くことも、想像することもできないのですから、とおっしゃいました。 |
解説はこちら 歎異抄第10章