歎異抄前序 歎異抄を書いた目的

前序
原文 現代語訳
ひそかに愚案を廻らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、 ひそかに愚かな思いをめぐらせて、かつて親鸞聖人から教えて頂くことができたあの頃と、今日を考えてみますと、聖人から直接教えて頂いた他力真実の信心と、異なることが説かれているのは、なんと嘆かわしいことでしょうか。
これでは聖人の教えを学ぶ後輩が、正しく学び、伝えるのに、疑いや惑いが生じかねません。  
幸いに有縁の知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。 幸いにも正しい仏教の先生におあいし、導きを受けなければ、どうして真実の仏教の教えを学び、阿弥陀仏の救いにあうことができるでしょうか。
まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。 決して、自分の考えで、真実の仏教の教えを乱してはならないのです。
よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。 そこで、今は亡き親鸞聖人がよく語って下された、耳の底に残る忘れられない御言葉を少しでも書き残しておきたいと思います。
ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり。 これはひとえに親鸞聖人の教えを学び求める同志の不審をはらしたいからなのです。

目次

歎異抄解説 前序

歎異抄』を書かれた目的はこれ一つ

『前序』とは、「序文」「はしがき」「はじめに」にあたるものです。
著者が、『歎異抄』を書いた目的を記しています。
当時、親鸞聖人がお亡くなりになった後、親鸞聖人が教えられなかったことを、親鸞聖人の教えだと話をする者が現れてきました。

しかもそれは一人や二人ではありません。
それらは『歎異抄』の11章から18章にとりあげて論じられています。

ではなぜ、親鸞聖人の教えられなかったことを言って、真実信心と異なる者が出てきたのでしょうか。

それは、親鸞聖人の教えを正しく知らなかったのでありましょう。
また、誰も知らないことを言って、人を集めたいという名誉欲もあったことでしょう。

結局正しい教えがわからず、みんな自分の考えで教えを曲げていってしまうのです。
それでよけい真実の信心わからなくなります。

しかし仏法は、人集めやお金で曲げていいものではありません。
決して、自分の考えで、真実の仏教の教えを乱してはならないのです。

そこで、これらを嘆き、何とか本当の親鸞聖人のみ教えを伝えようと作られたのが『歎異抄』なのです。

「後学相続之疑惑有ることを思うに」も、親鸞聖人の教えを学ぶ後輩が、正しく学び、伝えてゆくことができなくなるのではないか、
何とか親鸞聖人の教えを後々の世の人に正確に伝えたい、
その為にこの本を書いたんだ、ということです。

ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり」も、歎異抄の目的はただ一つ、志同じく、親鸞聖人の教えを学ぶ仲間たちの不審をはらし、正しい教えを伝えたいということなのです。

『歎異抄』の本質を学ぶ

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