歎異抄 第8章 極悪人の救われる唯一の道
第8章 | |
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原文 | 現代語訳 |
念仏は行者のために非行・非善なり。 | 念仏は、阿弥陀仏に救われて人生の目的を完成した人にとって、行でもなければ善でもない。 |
わが計らいにて行ずるにあらざれば非行という、わが計らいにてつくる善にもあらざれば非善という。 | 阿弥陀仏に救われたならば、自分の力で後生の一大事助かろうとして称えるのではないから、私の行でもないし、私の善でもない。 |
ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・非善なり、と云々。 | ひとえに阿弥陀仏のお力で称えさせられる他力の念仏であって、自力を離れているのだから、阿弥陀仏に救われた人にとっては、行でも、善でもないのです、とおっしゃいました。 |
目次
念仏は善ではないの?
念仏は行者のために非行・非善なり。
ここへ来て『歎異抄』では、また驚くべきことを言われています。
今まで、あれだけ「念仏にまさる善はない」と言われていたのに、突然、「念仏は行者のためには、行でもなければ善でもない」と言われています。
では、念仏は善ではないのでしょうか?
もちろんそんなはずはありません。
ここでポイントなのは、「行者のためには」ということです。
行者とは一体どんな人なのでしょうか。
『行者』とは、阿弥陀仏に救われ、人生の目的を達成した人のことです。
人生の目的は、それを教えられた仏教を聞き始めて、求め聞き、一念で完成します。
「一念」とは、あっともすっとも言う間のない短い時間です。
親鸞聖人は
一念とは信楽開発の時剋の極促をあらわす。(教行信証)
と言われています。
「信楽開発」の「信楽」とは、阿弥陀仏という仏様が、お約束されている内容です。
阿弥陀仏は、「すべての人を信楽の心にしてみせる」とお約束されています。
これを「阿弥陀仏の本願」といいます。
では「信楽」とは、どんな心かというと、
『信』とは大安心
『楽』とは大満足
ということです。
『開発』とは、ひらき、おこるということです。
阿弥陀仏の本願によって大安心、大満足の心に救われることを
信楽開発といわれています。
次の、信楽開発の時剋の極促ということは、
『時剋』は時刻と同じです。
『極促』とはきわめてはやい、ということですから、
阿弥陀仏の本願に救われて、信楽の心になる、何億分の一秒よりも短い時間のきわまりを一念といいます。
すべての人は、幸せを求めて生きています。
ですから、生きる目的は、どんな人にとっても、幸せです。
ですが、その幸せは、一時的な、続かない幸せでもいいかというと、そんなはずはありません。
変わらない幸せを求めて生きています。
ですから、すべての人の生きる目的は、
絶対変わらない、絶対の幸福になることだといえます。
では、変わらない幸せなどあるのか、これまで人類が考え続けてきたことですが、哲学でも心理学でも、いまだに発見されていません。
ところが、この阿弥陀仏の本願によって救われた大安心、大満足の信楽は、絶対変わることのない、絶対の幸福です。
すべての人は、この信楽の心になることが、人生の目的なのです。
「行者」とは、一念で阿弥陀仏に救われて、人生の目的を完成した人ということです。
人生の目的が完成した一念で念仏は180度変わる
「念仏は行者のために非行・非善なり」の「念仏」とは、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えることです。
「行者のために」とは、その阿弥陀仏に救われて、人生の目的を完成した人の為に、ということですから、
「念仏」は、その阿弥陀仏に救われた行者の為には
行ではない。善でもない。ということです。
ところが、ここは有名な学者でも分からないところです。
例えば、歎異抄で一番有名な、
岩波文庫の『歎異抄』には、こうあります。
いずれの行も及びがたき身と知る者にも、念仏をもって、わが善とし、わが行とする心は離れない。 (金子大栄『歎異抄』)
歎異抄第8章の原文からして「わが善でも、わが行でもない」と書いてあるのですから、とても混乱しているようです。
また、また金子大栄の『歎異抄 仏教の人生観』も参照すると、
『歎異抄』第8章の最大のポイントである、阿弥陀仏に救われた人と救われていない人の区別もついていないことが分かります。
『歎異抄』第8章の次の文を読んでみれば、このような解説がとんでもない間違いであることは、書かれています。
わがはからいにて行ずるにあらざれば、
非行という。
わがはからいにてつくる善にもあらざれば、
非善という。
一念で救われた後の人の念仏は
「こんなことでは助からないのではなかろうか」という心配はありません。
阿弥陀仏に救われるまでは、
「これだけ念仏称えているから悪い所へは行かないだろう」とか
「1回でも念仏多く称えた方が助けてもらえるのだろう」と思います。
そういう考えは、阿弥陀仏に救われるまでは絶対なくなりません。
ということは、阿弥陀仏に救われるまでの人は自分の称える念仏は助かる為に役に立つ行だ、と思っています。
念仏称えるということは、善だからです。
自分の作る善としているのです。
この、後生助かる為にやる心を自力の心とか、自力といいます。
救われるまでは自分の行が助かる為になる善だと思っています。
この「自力のはからい」とは何か、
つまり自力と他力の一念の水際が分かっていないと、本願寺・浄土真宗聖典編纂委員会の『歎異抄 現代語版』のように、まったく分からなくなってしまいます。
念仏は、それを称えるものにとって、行でもなく善でもありません。念仏は、自分のはからいによって行うのではないから、行ではないというのです。
(本願寺 浄土真宗聖典編纂委員会『歎異抄 現代語版』)
救われるまでは自力のはからいがなくなりませんが、一念で救われてからガラーッとかわって、自力が廃り、私の行でもなければ、善でもなくなってしまうわけです。
非行、非善なり。
「助けてもらったから、せめてお礼くらいは言わなければならないかな」
そんな念仏は、自分の計らいで、自分の意志で言っているわけです。
「礼状くらいは出さいといけないだろう」というようなものです。
ところが救われてからは、阿弥陀仏が称えさせる念仏ですから、
ひとえに他力にして、
自力をはなれたるゆえに、
行者のためには非行非善なりと云々
ポイントは「行者の為に」ということです。
人生の目的が完成していない人、行者でない人には、念仏は行であり、善なのです。
念仏は人生の目的が完成した行者の為に、行でもなければ善でもないのです。
ここが一番注意しなければならないポイントです。
念仏は、行者でない人、人生の目的が完成していない人には、行であり、善なのです。