歎異抄に明かされた生きる意味

生きる意味の答えは『歎異抄』に明らかに示されています。
第1章に親鸞聖人は、「摂取不捨の利益を獲るため」と明言され、
第7章で「摂取不捨の利益を獲た世界」を「無碍むげ の一道」と、きっぱり言い切られています。
生きる意味の答えは、ただ1つ、「無碍の一道」なのです。
では「摂取不捨の利益」、「無碍の一道」とはどんなことなのでしょうか?

目次

  1. 生きる意味とは
  2. 生きる意味はなくてもいい?
  3. 生きる意味・親鸞聖人のお答え
  4. 『歎異抄』第1章「摂取不捨の利益」
  5. 最後はすべてに見捨てられる
  6. 『歎異抄』第7章「無碍の一道」
  7. 一切のさわりがなくなるとは?
  8. 天地の神々が平伏する
  9. どんな非難攻撃も阻むことはできない
  10. 苦しみが喜びに転じ変わる
  11. どんな努力も比較にならないすばらしい幸せ

生きる意味とは

生きる意味について『歎異抄』にはどのように教えられているのでしょうか。

それを知るには、まず「生きる意味」とは何なのかが重要です。

生きる意味とは、なぜ私たちは生まれてきたのか、
なんのために生きているのか、
なぜ生きねばならないのかということです。

生きるということは大変なことですが、
死んではいけない
自殺してはいけない
といわれます。
一生懸命生きなければならない理由は何のためなのか、
ということが生きる意味です。
人生の目的」といっても同じ意味です。

人間の命は地球よりも重いとか、生命の尊厳といわれます。
では、なぜ人の命は地球よりも重いのか、尊厳なのでしょうか。
それは、私たちが生きている目的が、地球よりも重いからです。
非常に大事なことに向かって生きているから、人の命は地球よりも重いといわれます。
生きる意味がなければ地球よりも重いとはいえません。

生きる意味はなくてもいい?

ところが、その生きる意味について、
そんなのなくても生きていけるよ
生きる意味なんか考える必要ないんじゃないかな
そんなのないよ
生きていること自体が意味なんだよ
という人がよくいます。
これらはどれも生きる意味はない、ということですが、
本当に生きる意味はなくてもいいのでしょうか?

生きることを泳ぐことにたとえると、
人は生まれてきた時に、周り中水平線ばかりの大きな海に放り込まれたようなものです。
生まれたからには生きねばならないということは、
海の真ん中に放り込まれたからには泳がなければならない、ということです。

生きるということを泳ぐことにたとえているので、
生きねばならないということは、泳がなければならないということです。

では、どこへ向かって泳ぎますか?
周り中が水平線で、陸地がどこにあるかは分かりません。
島影一つ見えない。
生きるということは泳ぐということなので、
方向が分からないからといって、じっとしていることできません。
適当な方角に向かって泳いでも、泳ぐ意味はありません。
確かに泳ぐ意味なんかなくても泳いでいけますが、やがて土左衛門になるだけです。
泳ぐ意味なんかないし、なくてもいいよ、
という人は、適当な方向に向かって泳いで、やがて力尽きるだけです。

しかも、適当な方向に向かって泳いでいたら、その方角は沖合で、陸地とは180度逆方向だったらどうなるでしょうか。
泳げば泳ぐほど、陸地から遠ざかっていきます。
泳ぐ意味がないばかりか、一生懸命泳げば泳ぐほど、体力を早く消耗して、早く力尽きてしまいます。
だから、泳ぐ方角を知る必要があります。
それでこそ、泳ぐ意味が出てきます。

それと同じように、生きる目的を知る必要があります。
生きる目的があって、それに向かって生きる時、初めて生きる意味が出てくるのです。

ですから、私たちは何のために生きるのか、
どこに向かって生きるのか。
これほど大切なことはありません。

生きる意味・親鸞聖人のお答え

歎異抄』は、親鸞聖人のお言葉が記された書です。
親鸞聖人のお言葉を、弟子が書き残したのが『歎異抄』です。
ですから、『歎異抄』に明かされた生きる意味を知るには、
親鸞聖人が、生きる意味の答えをどう教えられているのかを知れば、分かりやすくなります。

親鸞聖人は生きる意味の答えをどう教えられているかというと、
親鸞聖人が直接書かれた主著『教行信証きょうぎょうしんしょう』の一番最初にこうあります。



難思の弘誓は難度の海を度する大船
(教行信証)


難度海なんどかい」とは、私たちの人生のことです。
難度」とは渡りにくいということで、
海に波が絶えないように、色々の苦しみが次から次とやってきます。
こんなことに会うとは夢にも思っていなかったという苦しみが色々来ますので、
苦しみの波が絶えない海にたとえて「難度海」と言われています。

あまりに苦しいので自殺している人もありますし、
天下を取った家康でさえもこう言い残しています。

人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し

天下を統一して、征夷大将軍になっても、生涯重荷を下ろせなかった。
それが人の一生であると言っています。
その重荷が苦しみのことです。
天下を取っても結局苦しみはなくならなかった
征夷大将軍になっても下ろせなかった
死ぬまで苦しみ続けなければならなかった、ということです。

それを親鸞聖人は、苦しみの波が絶えず、渡りにくい海ということで、難度海と言われています。

これでは私たちは、苦しんで死ぬために生まれてきたことになってしまいます。
生きる意味が分かりません。

ですが、私たちは苦しむために生まれてきたわけではありません。
苦しむために生きているのでもありません。
この苦しみの人生を明るく楽しく、人間に生まれてよかったという喜びで渡す大きな船がある、と教えられています。
それが、「難度海を度する大船」ということです。
その大きな船に乗ることが、本当の生きる目的であり、生きる意味なんだ、
この大きな船に乗れば、人間に生まれてよかったという生命の歓喜を得ることができるんだ、
と親鸞聖人は教えられています。

『歎異抄』第1章「摂取不捨の利益」

では『歎異抄』に、生きる意味はどう教えられているのでしょうか。
歎異抄』は、親鸞聖人がある時、こうおっしゃったということを、
そのままお弟子が書き残したものです。

その中でも、第1章は、『歎異抄』の全体がおさまるといわれる重要な章です。
その一番最初にこのように教えられています。

「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり。(『歎異抄』第1章)

この最後にある「摂取不捨の利益にあずかる」というのが本当の生きる意味です。
人間に生まれてきたのは摂取不捨の利益を得るためだ、ということです。

摂取不捨の利益」の「利益」とは幸福のことです。
すべての人は幸福を求めて生きている、生きる意味は幸せになることだ、
ということに異論のある人はないと思います。
不幸になるために生きている人はありませんので、
生きる意味は幸福になることだ、といえます。

ではそれは、どんな幸せでしょうか。

摂取不捨の利益」の「摂取」は「おさめとる」ということです。
不捨」とは捨てないということですから、
ガチッとおさめとって絶対に捨てられることがないのが、
摂取不捨の利益」です。

私たちは、お金があったら幸せになれる
恋人がいたら幸せになれる
家を持ったら幸せになれる
地位が高くなれば幸せになれる
名誉を得たら幸せになれる
と思って、そういうものを求めて生きています。

それらを朝から晩まで一生懸命求めて苦しんでいるのですが、
それらのものは、たとえ手に入ったとしても、
やがて私たちを捨てていくものです。

例えば健康なら、病気になれば、健康に捨てられたということです。
また、夫や妻に捨てられないだろうかと心配している人もいます。
せっかく自分の家を持っても、地震や津波で瓦礫になってしまったという人もいます。
首相や大臣、高位高官でも、マスコミに叩かれたり、警察に捕まったりして転落する人もいます。
そういう幸福に見放されないだろうか、
幸せに捨てられないだろうかとビクビクしています。
幸福に見捨てられることを恐れているわけです。

これらはしばらくは自分のものになっても、
いつまでも私のものではないので、
やがて必ず私たちを捨てていきます。
それが一番はっきりするのは、死んでいく時です。
死んでいく時には、これらのものは一つも自分についてきてくれるものはありません。
すべて別れて、一人で死んでいかなければなりません。
それを蓮如上人が『御文章』に、こう教えられています。

最後はすべてに見捨てられる

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。(御文章)

予てたのみおきつる妻子も財宝も」とは、
かねてからあて力にしている妻や子供、財産やお金、名誉、地位などです。
それは「まことに死せんときは」、いよいよ死んでいく時には、
わが身には一つも相添うことあるべからず」、一つも頼りにはなりませんよ。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ
一人で寂しく死んでいかなければなりませんよ、ということです。

いつまでも あると思うな 親と金
といわれますが、家族や財産、地位や名誉が、いつまでも自分のものだとは思えないので、絶えず
いつ離れるか
いつ見放されるか
いつ自分を捨てていくか」という不安があります。
それが人生を苦しみに染めて難度海にするわけです。
そして結局、最終的に見捨てられます。

そんな最後に見捨てられるものでは、本当の安心も満足もありませんので、
人間に生まれてよかったという生命の大歓喜はありません。
生きる意味にはならないということです。

私たちが求めている幸せは、絶対に捨てられない幸せです。
ガチッと摂取されて、絶対に見捨てることのない幸福、
今死ぬとなっても崩れない幸福、
これが『歎異抄』第1章に言われる「摂取不捨の利益」です。
そして、そういう幸福になることが、本当の生きる意味ですよ、
私たちが生まれてきたのは、摂取不捨の利益にあずかるためですよ、
と親鸞聖人が言われた、と『歎異抄』第1章に記されています。
その身になれば、この苦しみの絶えない人生を明るく楽しく渡す大きな船に乗ったいうことになります。

『歎異抄』第7章「無碍の一道」

歎異抄』第1章には、生きる意味の答えは、摂取不捨の利益にあずかることだ、と教えられていました。
それは死が来ても見捨てられない幸せになるということです。
では、摂取不捨の幸福になったらどうなるのでしょうか?
それについて『歎異抄』第7章に記されています。
ですから『歎異抄』第7章には、摂取不捨の利益にあずかったらどうなるかが記されているということです。
では、どのように教えられているかというと、こう説かれています。

念仏者は無碍むげの一道なり。
そのいわれ如何とならば、
信心の行者には天神・地祇ちぎ敬伏きょうぶくし、魔界外道も障碍することなし、
罪悪も業報ごうほうを感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり。(『歎異抄』第7章)

摂取不捨の幸福になると無碍の一道へ出られる
と親鸞聖人は言われています。

念仏者は無碍の一道なり」というのは、
念仏者は無碍の一道へ出るんだということです。

念仏者」とは、念仏を称えている人ですが、
ただ口で南無阿弥陀仏と称えてさえいれば念仏者なのではありません。
摂取不捨の利益にあずかった人を念仏者と言われています。
この「念仏者」を次に、「信心の行者」と言い換えられています。
信心の行者とは、摂取不捨の利益を得た人のことですから、
念仏を称えさえすれば念仏者なのではありません。
摂取不捨の利益にあずかって、人生の目的を達成して念仏を称えている人のことです。
そういう人は無碍の一道に生かされますよ、と言われています。

無碍の一道」とは、「」というのはさわり、ということですから、
一切がさわりにならない絶対の世界のことです。
摂取不捨の利益にあずかると、一切がさわりとならなくなる、ということです。

一切のさわりがなくなるとは?

では、一切がさわりとならなくなるというのはどういうことかというと、
次に「そのいわれ如何とならば」と教えられています。
これは、無碍の一道に出るとどうなるかというと、ということです。
一切がさわりにならないということについて、具体例をあげて教えられています。

天地の神々が平伏する

まず1つには、「天神・地祇も敬伏」すると言われています。
天の神、地の神が、敬って平伏するということです。
天地の神々といえば、普通は人間が頭を下げます。
何か不幸や災難にあうと、タタリではないかと不安になって、
天地の神々を恐れて頭を下げます。
ところが、信心の行者には、天地の神々、大宇宙の神々が
尊いお方だ」と頭を下げます。
しかも、いやいや頭を下げるのではなく、尊い方だと敬って、心から頭を下げるというのが「敬伏」です。
無碍の一道へ出れば、そんな神々を恐れることはなくなる、ということです。

どんな非難攻撃も阻むことはできない

次に2番目には、「魔界外道も障碍することなし」と言われています。
魔界」とは魔の世界の者、
外道」とは、仏教以外の宗教の者のことです。
魔界外道」は仏法者を非難攻撃してくるものです。
ところがそんな魔界外道も、信心の行者の前進を妨げることはできないということです。

実際親鸞聖人は、周り中から非難攻撃を受けておられましたが、
それを敢然と立ち向かわれ、一生涯、本当の生きる意味の答えを明らかにされています。
本当の生きる意味を明らかにする、前進を止めることはできない、ということです。
摂取不捨の利益にあずかって、無碍の一道へ出ておられたから、
それらがさわりにならなかったということです。

苦しみが喜びに転じ変わる

3番目には、「罪悪も業報を感ずることあたわず」といわれています。
罪悪も業報」というのは、一言でいうと、苦しみのことです。
無碍の一道へ出ても、難度海は変わりませんので、苦しみ悩みは起きてきますが、
それらを苦しみと感じないということです。
難度海を度する大船に乗り込めば、大船が大きいために全然感じないばかりか、
苦しみが喜びと転じ変わると親鸞聖人は言われています。
これを転悪成善てんあくじょうぜんとか煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいといわれます。

それはどんなことかということについて、
親鸞聖人は分かりやすくたとえで教えられています。

罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし(高僧和讃)

罪障」とは苦しみ、
功徳」とは喜びのことです。
苦しみが喜びに転じ変わることを「罪障功徳の体となる」と言われています。
」というのは元ということで、苦しみが喜びの元になるということです。

その「」という関係を、たとえを使ってもっと分かりやすく言うと、
水と氷のようなものだ、ということです。
氷の体は水ということです。
氷が水になるように、苦しみが喜びになる。
だから氷が大きければ大きいほど水が多くなるように、
苦しみが大きければ大きいほど、それが喜びに転じ変わってしまうから、喜びも大きくなるんだ、
と言われています。

本当の生きる目的を達成したら、
難度海を度する大船に乗ったら、
罪悪も業報も少しも私を苦しめるものとならないから、
無碍の一道だ、ということです。

どんな努力の結果も比較にならないすばらしい幸せ

最後4番目には、「諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり」と言われています。
これは、どんなに優れた人が、どんなに努力をした結果でも到底及ばない、
すばらしい幸福になれるんだ
ということです。
摂取不捨の利益というのは、どんなすごい人が、どんなに努力しても、
とても作り出すことのできない幸せだということです。
そういう身になることが、人間に生まれてきた目的であり、
本当の生きる意味なんだ、ということです。

このように、本当の生きる意味の答えを、
歎異抄』の第1章には「摂取不捨の利益」を得ることだ、と示され、
第7章には、「摂取不捨の利益」を得れば「無碍の一道」へ出る。
その身になることが本当の生きる意味だ、と明かされています。
その身になるところまで、仏教を聞いて、生き抜かなければならないということです。

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