歎異抄第4章-慈悲といっても2つある
第4章 | |
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原文 | 現代語訳 |
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。 | 慈悲といっても、聖道仏教と浄土仏教では違いがあります。 |
聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。 | 聖道仏教の慈悲とは、他人や一切のものをあわれみ、いとおしみ、大切に守り育てることをいいます。 |
しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。 | しかしながら、どんなに頑張っても、思うように満足に助けきることは、ほとんどありえないのです。 |
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。 | 浄土仏教で教える慈悲とは、はやく阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称えて仏になる身となって、大慈悲心をもって思う存分人々を救うことをいうのです。 |
今生に、いかにいとおし不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。 | この世でどんなにかわいそうに、何とかしてやりたいと思っても、ご承知の通り、助けきることは難しいですから、聖道の慈悲は、一時的で徹底しないのです。 |
しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき、と云々。 | だから、阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称える身になることのみが、徹底した大慈悲心なのです、と親鸞聖人は仰せになりました。 |
目次
「慈悲」に2通り?何ですか?どっちがいいんですか?
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
親鸞聖人は、慈悲に2つあるとおっしゃっています。
「慈悲に、聖道と、浄土の二つある」
『慈悲』とは、『慈』の心と、『悲』の心です。
『慈』とは、苦しんでいる人を、かわいそうだ、苦しみを抜いてやりたいと思う心です。これを『抜苦』の心といいます。
子どもが病気で苦しんでいると、親は、病院に連れてゆくでしょう。
何とか苦しみをぬいてやりたい。
どんなにお金がかかっても、夜中で自分は眠たくても、連れてゆきます。
これが、親の抜苦の心です。
『悲』というのは、楽を与えてやりたいという、『与楽』の心です。
ですから、慈悲というのは、抜苦与楽のことです。
その慈悲に、聖道と、浄土の二つある。
ですから、抜苦与楽に二つあるということです。
ということは、抜くと言われた苦しみに2つあり、与えると言われた楽しみにも2つあるということです。
1つ目「聖道の慈悲」とは?
聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。
1つ目の「聖道の慈悲」とは、ものを憫れみ悲しみ育むことです。
苦しんでいる人を見ると、あわれみ、かわいそうだ。
何とか苦しみを抜いてやりたいと思います。
悲しみ、かわいそうだ。
育むといいますのは、助けてやりたいということです。
これが慈悲です。
これは「人間の慈悲」です。
倫理や道徳は、こういうことを教えています。
この慈悲がなければ、鬼といわれます。
鬼というのは、もとは「遠仁(おに)」と書いていました。
仁に遠ざかると書きます。
「仁」とは、人の道であり、慈悲の心です。
『論語』にも、仁について「人を愛するなり」と書かれていて、人間関係の上で最も大切だとされています。
この心があってはじめて人と言われます。
苦しんでいる人を見ても、ほうっておく。
そういうのが鬼です。
慈悲がなければ、人間でないのですね。
ですから、これは、人間の慈悲です。
こういう心が深ければ深い程、広ければ広い程、立派な人といわれます。
政治も経済も科学も医学も、人間のやっていることの目的はみんなこれです。
政治は、国民の利益と安全を守りたい。
経済は、貧しい人を豊かにしてやりたい。
科学は、少しでも快適にしてやりたい。
医学は、病気で苦しんでいる人を、楽にしてやりたい。
人間のやっていること全部、この「聖道の慈悲」なのです。
しかし、親鸞聖人は、これは「聖道の慈悲」だとおっしゃっています。
「聖道門の慈悲」の正体
しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。
「聖道の慈悲」の正体を、親鸞聖人は、「助けとぐること極めて有り難し」とおっしゃっています。
「人間の慈悲」の正体、本当の姿を親鸞聖人は、
「思うように助けることが出来ない。完全に救いきることはできないんだ」
と言われているのです。
もちろんこれは、「無慈悲であっていい」ということではありません。
しかしこれは、一時的な救いなのです。
「思うが如く」とは、人間の苦しみ悩みの根元を抜いて、人間に生まれた目的を達成させる。
本当の意味で助けきることはできないのだとおっしゃっています。
2つ目「浄土の慈悲」とは?
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心を
もって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
ここが歎異抄書いた人の怪しいところです。
「仏に成る」とは、親鸞聖人においては死後のみです。
親鸞聖人の書かれたもので、死後以外で「仏に成る」とはどこにもありません。
それが親鸞聖人の一貫した教えです。
「仏になれば大慈大悲心を持つから思う存分衆生を救うことができる。
だから浄土の慈悲は死なねば発揮できない」
とするならば、
「急いで仏に成りて」は
「急いで死ね」ということになってしまいます。
実際、これを文字通りそのような解釈をしている人もあります。
「念仏していそぎ浄土」に生まれることが、おのづから大慈大悲の生活にみちびかれるのである。
(梅原真隆『歎異鈔講義』)
学者の人は、文字にとらわれてしまうのでしょうか。
(親鸞聖人は)利他教化ということは、すべて一生涯を終ってからのことであると領解せられました。
(金子大栄『歎異抄聞思録』)
ところがもし本当に親鸞聖人が、人に仏法を伝えるのは一生涯を終わってからだと理解され、死なねば人を救うことができないなら、親鸞聖人は29歳で阿弥陀仏に救われたのですから、すぐ死なれたはずなのに、なぜ90才まで生きておられたのかということになってしまいます。
そして関東では、雪をしとねに石を枕に、仏法嫌いの日野左衛門を済度されたり、剣をかざして殺しにきた山伏弁円に対しても、「御同朋・御同行」と親しく仏法を伝えておられます。
「早く仏になりて」では、親鸞聖人の生きざまとも全然違います。
正しい親鸞聖人の教え知ろうと思うなら主著『教行信証』です。
親鸞聖人がじかに筆を取って書かれました。
『教行信証』をはじめ、親鸞聖人書かれたもの以外はものさしにしてはなりません。
歎異抄は親鸞聖人の書かれたものではありませんので、『歎異抄』に書いてあるからといって、自分の思いで親鸞聖人の教えを曲げるわけにはいきません。
『歎異抄』の著者は言葉が抜けたのではないでしょうか。
親鸞聖人の書き残されたものにあうかどうかがポイントです。
そこで、 「成る身に」を入れて、「仏に成る身になりて」ではどうでしょう。
阿弥陀仏の本願に救われて、いつ死んでも仏に成る身になりてという意味ならば、ぴったりです。
ですから浄土の慈悲は「念仏して」
急いで信心獲得して、いつ死んでも仏になれる身になって、大慈悲心をもって思う存分人々を救う、これが「浄土の慈悲」です。
大慈悲心には、ものを憫み悲しみ育む、そういう慈悲ではなく「大」の字がつきます。
阿弥陀仏に救われますと、「大慈悲心」を阿弥陀仏から頂きますから思うが如く本当の抜苦与楽・阿弥陀仏の救いにどんどん導くことができるのです。
「思ふが如く助け遂ぐること」が「浄土の慈悲」です。
阿弥陀仏に救われて皆を導くことが出来ます。
本当の意味で、みんなを助かったという身にすることができるのです。
「聖道の慈悲」の結論
今生にいかに愛し不便と思ふとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。
これは聖道の慈悲を言われたものです。
さきほど、
「思ふが如く助け遂ぐること極めて有りがたし」
といわれたのは、
「今生にいかに愛し不便と思ふとも、存知のごとく助け難ければ、
この慈悲始終なし」と同じ意味です。
これが「聖道の慈悲」に実態であるということです。
「今生」この世で色んな人を見て、いとおしいと思います。
この世は悲惨な人が沢山います。
「いかに愛し不便と思ふとも」
「助けてあげたい」と思っても
「存知のごとく」ご承知の通り、
「助け難ければ」助けるということが難しい。
「聖道の慈悲」は本当に助けるということが出来なません。
「始終なし」というのは一時的で、末徹らないということです。
しばらくのことです。
助かったと言っても、死ななくなったのではありません。
2、30年延びただけです。
末徹りません。変わってゆきます。
徹底しないのです。
では「浄土の慈悲」はどうでしょうか?
「浄土の慈悲」の結論
しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき、と云々。
最後に、この世で阿弥陀仏に救われて、大慈悲心を阿弥陀仏から頂いて、人々を救う「浄土の慈悲」について言われています。
よくこれを、
「とにかく念仏を称えることだけが一貫した大慈悲心なのだ」
と思っている人があります。
ただただ念仏をとなえることだけが一貫した大慈悲心なのである(ひろさちや「マンガ歎異抄入門」)
しかし、そういう意味ではありません。
「阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称える身になることのみが、徹底した大慈悲心なのです」
ということです。
なぜそれが大慈悲心なのかというと、この世で阿弥陀仏に救い摂られると、阿弥陀仏の御心と我々の心とが一体になります。
一念帰命の信心を発せば、まことに宿善の開発に催されて仏智より他力の信心を与えたまうが故に、仏心と凡心と一つになるところをさして信心獲得の行者とはいうなり。(御文章)
「仏心」とは阿弥陀仏の御心。
「凡心」とは私たちの心です。
阿弥陀仏の御心と私たちの心が一つになるのです。
では「仏心」とは何かといいますと、これが、大慈悲心です。
仏身を観ずるを以ての故に、また仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。(観無量寿経)
阿弥陀仏から大慈悲心を頂き、絶対の幸福に救い摂られます。
本当の幸福に救われた人は、こんな幸福の身に救われて、ひとりじめしていてはもったいないと、人に伝えずにおれなくなってくるのです。
大慈悲心をもって思う存分人々を救わずにおれないのです。
これこそ、苦悩の根元を抜き、本当の幸福を与える本当の意味での抜苦与楽、大慈悲心なのです。
浄土の慈悲というのは、この世で阿弥陀仏の本願に救われて、阿弥陀仏から大慈悲心を頂いて、人々を救うことなのです。
最後に、「聖道」と「浄土」について考えてみると、「聖」と「浄」は、どちらも汚れがない、きよらか、ということで大体同じなのですが、「道」と「土」は違います。
浄土の「土」は、土地とか世界ということですから、目的地。
聖道の「道」とは、道程のことです。
そういうことからすると、「聖道の慈悲」とは「どう生きるか」という生きる手段です。
生きていく上で、憫み悲しみ育むのです。
これによって健康になったり、お金がもうかったり、人間関係がよくなる幸福は人と比べて喜ぶ「相対の幸福」です。
生きる上で必要ですが、喜びは続きません。
完成もありません。
それに対して「浄土の慈悲」というのは「なぜ生きるか」という生きる意味、変わらない、本当の幸福、絶対の幸福を知らせ、果たさせる慈悲なのです。
「聖道の慈悲」は「どう生きるか」という生きる手段についての努力、慈悲です。
「どう生きるか」と「なぜ生きるか」との違い、「相対の幸福」と「絶対の幸福」との違いが、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」です。
「慈悲」と言いいましても二つあります。
ものを憫み悲しみ育むことを軽視してはなりません。
「なぜ生きるか」という、生きる目的が明らかになって、この為にこそ「どう生きるか」という生きる手段が大事になってくるのです。