歎異抄第1章 摂取不捨の利益
第1章 | |
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原文 | 現代語訳 |
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 | 「すべての人を救う」という、阿弥陀仏の不思議なお約束に助けられ、いつ死んでも極楽往き間違いなしの身となって、お礼の念仏称えようと思いたつ心のおきた時、おさめとって捨てられない、絶対の幸福に生かされたのです。 |
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。 | 阿弥陀仏の救いには、年老いた人も、若い人も、善人も、悪人も、一切の差別はありません。ただ、真実の信心一つで救われるのです。 |
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。 | なぜ悪人でも、阿弥陀仏の本願を信ずる一つで救われるのかといえば、煩悩の激しい、最も罪の重い悪人を助けるために建てられたのが、阿弥陀仏の本願だからです。 |
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。 |
ですから、この世で阿弥陀仏の本願に救い摂られたならば、往生の一段においては、一切の善は無用となります。阿弥陀仏から頂いた念仏以上の善はないからです。 |
目次
「摂取不捨の利益」こそ本当の生きる意味
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
『歎異抄』のすべては、この第1章におさまります。
『歎異抄』の中で最も重要な第1章ですので、よく聞いて頂きたいと思います。
まず「摂取不捨の利益」とあります。
これは、すべての人が生きている目的を言われています。
古今東西の全人類が最も知りたい生きる目的は、摂取不捨の利益にあずかるためだということです。
「摂取不捨の利益」とは
「利益」とは、御利益ではなく、幸福のことです。
「摂取」とは、「摂」はおさめる、
「取」はとる。
おさめとられるということです。
「不捨」とは捨てないということです。
変わらない、二度と迷うことがないということです。
このようなガチッと摂め取って永遠に捨てない不変の幸福を「摂取不捨の幸福」といわれます。
絶対の幸福が完成するということです。
『歎異抄』第7章の言葉でいえば、「無碍の一道」に出させて頂けるということです。
ではなぜこれが、生きる目的なのでしょうか。
すべての人は、幸福を求めて生きています。
受験生が苦しくても受験勉強をするのも合格した方が幸福になれると思うからです。
社会に出て毎日苦労して働くのも、失業よりも幸福だと思うからです。
古今東西、すべての人が、生きてきた目的は幸福になるためです。
人間が求めているものは、行きつくところは、すべて幸福を求めてのことですから、政治も、より幸福になるためであり、経済も、幸福になるためです。
科学も幸福になるためです。
人を不幸にするために科学は発達したのではありません。
医学や、芸術、スポーツとか、その他人間の営みはすべて幸福になるためです。
ところが、私たちが求める幸福は、やがて必ず壊れてしまいます。
この世のものすべては続かないことを諸行無常といわれます。
どんな幸福も、やがて必ず崩れる日が来るのです。
ですから、常にいつ崩壊するか分からないという不安がついてまわります。
それに対して、絶対に変わらない幸福がすべての人が求める、生きる目的です。
これを絶対の幸福といいます。
そんなすべての人が求める、人生の目的である変わらない幸福をこの『歎異抄』第1章では「摂取不捨の利益」と言われているのです。
「あずけしめ給うなり」とは、摂取不捨の利益になるのに、自分の努力は一切間にあいません。
全く阿弥陀仏からの頂きものですから
「摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり」
と言われています。
生きる目的ということについて『歎異抄』では、このように第1章から
「この摂取不捨の利益、絶対の幸福になるために古今東西の全人類は生きているのだ、
そして、生きていかなければならないのだ」
と、生きる意味が教えられています。
いつ絶対の幸福になれるの?
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、
「弥陀の誓願」とは、「阿弥陀仏の本願」のことです。
「誓」とは誓いということですから、
「阿弥陀仏の本願」とは、
阿弥陀仏がたてられたお約束ということです。
阿弥陀仏は、
「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」
とお約束なされています。
摂取不捨の利益に助けるということです。
阿弥陀仏の本願の通りになった時、阿弥陀仏の本願まことであったと疑い晴れますからその疑い晴れたのが真実の信心です。
では、いつ疑いが晴れるのでしょうか。
阿満利麿「無宗教からの『歎異抄』読解」にあるような、ハッキリしないものではありません。
本願と出逢う前と出逢った後に生まれる、明白な心の変化のことである。
そうした変化は、劇的にあらわれる場合もあるが、長い時間をかけてふり返ったときに、そうであったのか、と自覚される場合も少なくない。(阿満利麿「無宗教からの『歎異抄』読解」)
「一念」とは、あっという間もない短い時間です。
親鸞聖人は『教行信証』にこう記されています。
「一念」とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す。(教行信証)
「『一念』とは、人生の目的が完成する、何億分の一秒よりも速い時をいう」
「信楽開発」とは摂取不捨の利益にあずかることです。
「時剋」は時刻。
「極促」は極速と同じです。
ですから、摂取不捨の利益にあずかる時は、あっという間なのです。
それを親鸞聖人はここで
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」
とおっしゃっています。
次に、
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて
往生をば遂げるなりと信じて」
とおっしゃっています。
「往生」とは、極楽へ往って阿弥陀仏と同じ仏に生まれるということです。
「往生をば遂ぐるなり」とは、いつ死んでも極楽往き間違いなしということです。
これは死んでからのこと。
「信一念」に
この世は絶対の幸福(摂取不捨の利益)に救い摂られ、死ねば極楽へ往って仏に生まれるとハッキリするのです。
仏教の救いは、この世と未来の二度あるのです。
ところが、この世だけのことだと主張する『歎異抄』の解説もありますから、
注意が必要です。
第1章では、「弥陀の誓願不思議」の救いが、「往生をばとぐる」と言われ、「摂取不捨の利益」にあずかる、と説かれる。(中略)それらは二つのことが別々にあるのではなくて、本願成就の救いを別の角度から説いたものである。
(延塚知道『親鸞の説法「歎異抄」の世界』)
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて『往生をばとぐるなり』と信じて」を
人間の思慮を超えた阿弥陀の本願の大いなるはたらきにまるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して
(親鸞仏教センター『現代語訳 歎異抄」)
救いはこの世と未来の二度ある親鸞聖人の教えを二益法門ともいわれ、蓮如上人はこのようにおっしゃっています。
一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。
されば二益なりと思うべきものなり。(御文章)
「滅度」は仏のさとりのことです。
一念で摂取不捨の利益にあずかるのはこの世のこと。
仏のさとりは浄土で得られるから、二益だといわれています。
弥陀の救いをこの世だけとするのは、大変な間違いです。
そして次に、弥陀の救いは全く阿弥陀仏のお力だったと知らされますから、どうお礼を言ったらいいのかと、お礼の念仏を称えずにおれなくなります。
この心が起こったとき救われると書かれています。
その心が「念仏申さん」と思いたつ心です。
ですから、念仏称えれば救われるのではありません。
摂取不捨の利益にあずかるのは
「『念仏申さん』と思いたつ心の発るとき」です。
念仏称えようという心の起こるときということは、まだ“ナムアミダブツ”の“ナ”も言わないとき、摂取不捨の利益にあずかるのです。
念仏を称える前なのです。
だから念仏称えて、摂取不捨の利益にあずかるのではありません。
口から“南無阿弥陀仏”と称えるのはこの世で、絶対の幸福に救われた後なのです。
『歎異抄』には、最初の一文で、阿弥陀仏の本願に助けられた一念に、往生を遂ぐるなりと信じて、「念仏申さん」と思いたつ心がおこり、摂取不捨の利益にあずかるのだと、人生の目的が完成した一念のことを明らかにされています。
このように、『歎異抄』の最初の親鸞聖人のお言葉はものすごいことを凝縮しておっしゃっているのです。
なぜどんな極悪人でも救われるの?
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。
この摂取不捨の利益にあずかることに全く関係のないことは何でしょうか。
阿弥陀仏の本願の相手はすべての人ですから古今東西、入らない人はありません。
年がいっていようとなかろうと、善人であろうと悪人であろうと全く関係ないということです。
善人だから早いとか
悪人だから遅いとか
助かるのが早い遅いも関係ありません。
罪悪が重いから助かるのが遅いとか、煩悩が沢山あるから助かるのが遅いとか、煩悩が少ないから早く助かるということも、関係ありません。
一体なぜでしょうか。
その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。
どんなに罪悪が深く、重くても、どんなに煩悩が盛んであっても。
「熾盛」とは火が非常な勢いで燃えていることです。
煩悩が燃えさかっている、そんな私たちを助けんがための本願だからです。
「煩悩おさえろ」という阿弥陀仏の本願ではありません。
そういうことのできない私たちを助けるという本願です。
「阿弥陀仏の本願は老少・善悪の人をえらばず」とは
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」が
目当ての本願というのと同じです。
これは私たちにとって、とても都合のいい話です。
心を踊らせるような言葉で私たちを惹きつけて離しません。
ここだけ聞くと、みんな死んだら極楽となってしまうのですが、次に
「ただ信心を要とすと知るべし」
とあります。
阿弥陀仏の本願は若い人であろうと、年寄りであろうと、
男であろうと
女であろうと
アメリカ人であろうと
日本人であろうと関係ないけど、ただ信心だけは獲得していないと助かりません。
非常に重要です。
信ずる一つで救われるとは?
ただ信心を要とすと知るべし。
「信心」といっても、普通に使われているような、金が儲かる、病気が治る、ゴリヤクがあるから信じる信心とは、まったく異なります。
親鸞聖人の説かれる信心は、「念仏申さんと思いたつ心のおきた」瞬間に、摂取不捨の幸福を得て人生の目的が完成する「二種深信」であり、「他力の信心」のことです。
ところが、こんな『歎異抄』の解説まであります。
今日でも、大切なのは信心であって口称念仏ではないという「真宗信者」も少なくはない。(阿満利麿「無宗教からの『歎異抄』読解」)
まるで親鸞聖人や『歎異抄』自体を批判しているかのようですが、親鸞聖人の主著『教行信証』には、この他力の信心以外に説かれていないので、親鸞聖人の教えを「唯信独達の法門」といわれます。「他力の信心一つで人生の目的が完成する」
ということです。
「信心を要とす」ここが最大のポイントです。
「老少・善悪の人をえらばず」
差別はありません。
だから疑わないように念仏称えていればいい。
信じていればいい、その程度ではありません。
ましてやこのような、疑いが含まれるような「信」ではありません。
〈信〉は〈不審〉を内包している。そしてそれは〈不審〉への絶えざる揺り戻しとして現れる。(佐藤正英「歎異抄論註」)
「信心を要とす」
これがないと助からないと言われています。
この「信心」とは二種深信です。
世間で考えている信心とは全然違います。
“不思議不思議”と驚かされる信心です。
「真実の信心」
「他力の信心」
ともいわれます。
仏教を求め、人生の目的が完成した信心です。
歎異抄のカミソリといわれる危険なところ
しかれば本願を信ぜんには、
他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、
悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。
この部分は、『歎異抄』がカミソリといわれる
最も誤解されやすいところの一つです。
仏教を破壊し、多くの人を破滅へと向かわせた弊害が非常に大きかった危険極まりないところです。
そして、岩波文庫から『歎異抄』を出した金子大栄もこの部分の意味は分からないと言っています。
「悪をも恐るべからず。善も要にあらず」。それだけのことを聞きますと、自暴自棄のようですが、なにかそういう世界があるのです。
(中略)
人生はこういうものであるかなと、諦めてみますと、悪をもおそるべからず、善も要にあらず、という世界があるのであろうかなあ、という感じがわかるのでしょうか。(金子大栄『歎異抄 仏教の人生観』)
ここは他力信心の極致が記されているので、親鸞聖人の教えを正しく理解せずに読むと、全く分かりません。
「善をやる必要はない。悪を恐れる必要はない」
とさえ思ってしまいます。
そんな誤解をしてしまったのが、たとえば齋藤孝「声に出して読みたい日本語 音読テキスト③ 歎異抄」です。
阿弥陀仏の本願を信じる人は、念仏以外に、どんな善いおこないもする必要はありません。
(齋藤孝「声に出して読みたい日本語 歎異抄」)
また、千葉乗隆の「新版歎異抄 現代語訳付き」では、要旨にこう書かれています。
仏の不思議な力のこめられている念仏は、これにまさる善はないので、他の善い行いをする必要はないことを強調する。(千葉乗隆「新版歎異抄 現代語訳付き」)
また、松本志郎の「新訳歎異抄」では、
本願を信ずる者は、何もわざわざ善根を積む必要はない。
(松本志郎「新訳歎異抄」)
他の善は必要ではない。善などしなくともよいというのである。悪もおそれなくてもよいというのである。しかし人間には善をしたいという気持や、また悪をしたいという気持がたえず動いている。人間がこのような気持から離れることはなかなかむつかしい。(野間宏『歎異抄』)
「わざわざ善をする必要がない」とか、「たえず動いている善をしたい気持ちを離れないといけない」
かのようです。
しかしもちろん、そんな意味ではありません。
では、一体どんな意味なのでしょうか。
まず、「しかれば本願を信ぜんには」とは、
「阿弥陀仏の本願に救われたならば」ということです。
では、救われたらどうなるのでしょうか。
阿弥陀仏に救われたら二種深信が立ちます。
他力信心といっても、真実信心といっても、二種深信以外にはありません。
では、二種深信とは何でしょうか。
「二種」とは二つのことです。
「深信」とは、ハッキリ知らされるということです。
ですから、二種深信とは、二つのことがハッキリ知らされることです。
その二つとは、「機」と「法」の二つです。
「機」とは、私たちのこと。
「法」とは、阿弥陀仏の本願のことです。
阿弥陀仏のお約束なされていることです。
この二つがハッキリすることを
二種深信というのです。
機についてツユチリほどの疑いもなくハッキリしたのを機の深信といいます。
法についてツユチリほどの疑いもなくハッキリしたのを法の深信といいます。
「機」は「堕つるに間違いなし」
「法」は「助かるに間違いなし」
この二つが同時にハッキリし、永遠に続くのです。
このことを「きっと助かると信じて」と解説している解説書があるので驚きます。
阿弥陀さまの不思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて
(梅原猛『歎異抄』)
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて
の現代語訳ですが、二種深信も何も分かっていません。
では次ですが、
「他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきが故に」
とは、たとえば、苦しんできた難病が、特効薬で完治した人に、薬を探すことがあるでしょうか。
他の薬が欲しいのは、全快していないからです。
ハッキリ救い摂られた人に、救われるために励む善などあろうはずがないのです。
善が欲しいのは救われていない証です。
摂取不捨の幸福に生かされ、人生の目的を達成すれば、一息一息に生命の尊厳さが知らされ、
報恩感謝に全力(善)つくさずにおれなくなりますが、
”人生の目的成就のため”にする心は微尽もない、
ということです。
「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に」
とは、無類の極悪人であったと照らされて(機の深信)、
それが弥陀の正客だったと驚いた(法の深信)念仏者に、
恐れる悪などあろうはずがない、ということです。
「こんな私は、救われないのではなかろうか」
と悪を恐れるのは、
”絶対に助からぬ極悪人”と知らされていないからです。
罪悪深重、煩悩熾盛の極悪人と照らし抜かれ、救い摂られた念仏者なら、善も欲しからず悪も恐れずの、善悪を超越した世界で大満足しているのだよ、と親鸞聖人は言われているです。